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「救いの確信」(110925ku)
 
エフェソの信徒への手紙 2:1〜9
ガラテヤの信徒への手紙 2:15〜16
 
エフェソ2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
 
 
今日は「救いの確信」と言うテーマを付けましたが、これは私たちの普段の生活にとても大切なものです。シャロームと言う挨拶の言葉がありますが、これは「平安がありますように」という意味です。シャロームの前提が「救いの確信」が有ると言うことです。それはまた、何時(いつ)死んでも天国に行けるという意味でもあります。
私たちが持っている「平安」には2種類あります。私たちがまだ、罪と良心とが同居している状態であるならば不安定な「平安」と成ってしまうでしょう。自我が勝っているような時には不安に思うことがあるかもしれません。
サムエル・ブレングルも、「自分自身のために人生を生きていた時代、つまり自分の望みや、野心に集中していた時代には、『天国に行けなく成るような事はしないように注意しないと』と考えていました」と言っています。
 
勿論聖潔の世界に入っていない状態ではこのようなことがあるかもしれません。まだ人生のすべてをキリストに明け渡した訳ではないので、自分はクリスチャンとしての標準に合致しているだろうかと言うことが気掛かりになる訳です。
 
そこで今日は「救いの確信」について御言葉から確認をしておきたいと思います。
ガラテヤの信徒への手紙
「2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
 
勿論私たちはクリスチャンの標準に叶うよう努めなければ成りません。しかし、いつでもできる訳ではありません。私たちは間違いもしますし、自分自身を見失うような時もあるかもしれません。そこで私たちは我に帰った時に「悔改め」が求められています。何時(いつ)でも「ごめんなさい」と言う姿勢を持っている必要があります。
ガラテヤ2:16では「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と言っています。私たちは律法の実行が神様から求められていますが、これを出来る人はいない訳です。何故(なぜ)かと言うと、律法の1つでも破るならば、その人は律法の違反者とされるからです。
ヤコブの手紙2:10に 「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。」 とあります。
ですから私たちは行いによっては「救いの確信」を得ることは出来ません。律法の全部を完全に守ることが出来る人はいないからです。その様な私たちの救いとしてイエス様は来てくださいました。ですから間違ったなと気付いた時には何時(いつ)でもイエス様に「ごめんなさい」と誤るならば赦して頂ける訳です。ですからクリスチャンは何時(いつ)死んでも天国に行けます、と確信して大丈夫です。
私たちは根本的には自分の人生をイエス様にお任せしたのですから、イエス様がすべての面に於いて責任を取ってくださいます。ですから何時(いつ)でもシャロームと挨拶を交わすことが出来ます。
 
さて私たちが持っている「平安」の2つ目ですが、これは罪と良心とが同居している状態から、階段を一つ上がることによって得られるものです。
サムエル・ブレングルは次のように言っています。「わたしは天国に行きたいという願いはあったが、しかし、善を行い、聖くありたい、と願うことはなかった。だが、ついにこの心が変えられた。わたしの罪は重荷となった。自分自身がいやになった。悪を行う者に向けられる神の憤りと激しい怒りが私自身に向けられ、私は永遠に滅びてしまうのではないかと不安になった。だが、私はイエスにより救いを見いだした。イエスにより罪が赦され、自己中心に縛られた奴隷状態から解放されたことを知った。神はわたしをお責めにならず、惜しみなく愛してくださり、わたしの心を勝ち取り、口では表現できないほどに主に対する確信と愛とでわたしを満たしてくださった。」
 
これがサムエル・ブレングルの聖潔に入った時の証しです。自分が罪と良心とが同居している状態から解放されたい、と強く願った時に、イエス様は、全き救いを与えてくださいました。サムエル・ブレングルは言っています。「イエス様がわたしの心を勝ち取り」、「口では表現できないほどに主に対する確信と愛とで満たされました。」
 
聖潔の世界に入っても誘惑と弱さはやって来ますが、以前の段階から比べるならば格段に、その影響は小さくなっています。
「救いの確信」と、この世界が神によって創造された、聖い世界であることが肌身に感じ、揺らぐことのない喜びに包まれます。これが2つ目の「平安」です。
この平安は、罪と良心とが同居している状態から解放されたい、との強い願によって与えられます。イエス様は、揺らぐことのない「平安」を手にするようにと勧めておられます。そのためにこそイエス様はその十字架への道を進まれました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 「救いの確信」は私たちの普段の平安につながっており、それはまた何時(いつ)死んでも天国に行けるという安心です。私たちが持っている平安には2種類あります。私たちがまだ、罪と良心とが同居している状態であるならば不安定な「平安」と成ってしまいます。自我が勝っているような時には不安に思うことがあるかもしれません。サムエル・ブレングルも、「自分自身のために人生を生きていた時代、つまり自分の望みや、野心に集中していた時代には、『天国に行けなく成るような事はしないように注意しないと』と考えていました」と言っています。まだ人生のすべてをキリストに明け渡していない時は、自分はクリスチャンとしての標準に合致しているだろうかと気掛かりになります。そこで「救いの確信」について確認いたしましょう。(ガラテヤ2:15-16 )「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。勿論私たちはクリスチャンの標準に叶うよう努めなければ成りません。しかし、いつでもできる訳ではありません。私たちは間違いもしますし、自分自身を見失うような時もあるかもしれません。
 
そこで私たちは我に帰った時に「悔改め」が求められています。何時(いつ)でも「ごめんなさい」と言う姿勢を持っている必要があります。私たちは行いによっては「救いの確信」を得ることは出来ません。律法の全部を完全に守ることが出来る人はいないからです。その様な私たちの救いとしてイエス様は来てくださいました。ですから間違ったなと気付いた時には何時(いつ)でもイエス様に「ごめんなさい」と誤らなければなりません。それによって赦されます。ですからクリスチャンは何時(いつ)死んでも天国に行けます、と確信することが出来ます。 2つ目の「平安」は罪と良心とが同居している状態から、階段を一つ上がることによって得られるものです。サムエル・ブレングルは次のように言っています。「わたしは天国に行きたいという願いはあったが、しかし、善を行い、聖くありたい、と願うことはなかった。だが、ついにこの心が変えられた。わたしの罪は重荷となった。自分自身がいやになった。神の憤りと激しい怒りが私自身に向けられ、私は永遠に滅びてしまうのではないかと不安になった。だが、私はイエスにより救いを見いだした。イエスにより罪が赦され、自己中心に縛られた奴隷状態から解放されたことを知った」。彼は罪と良心との同居状態からの解放を強く願うことによってそれが得られました。彼は100パーセントイエス様に喜ばれることのみを行う決心をすることが出来ました。2つ目の「平安」は揺らぐことのない喜びと平安に包まれるものです。