ペトロの手紙T4:12〜19
4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
私たちの人生には色々な出来事が起こります。喜ばしいこともありますが、困難に遭うこともあります。私たちは信仰を持つことによって祝福が与えられるだろうと期待しています。しかし、予想に反して苦しみに遭うこともあります。その様な時私たちはどのように理解し受け取るべきなのでしょうか。
今の時代、交通事故やその他の事故に遭わないと言いきることは出来ません。自分ではなく、家族の場合もあります。また、病気に罹(かか)ることもあります。癌は二人に一人は罹ると言われています。
私たちが陥りやすい考えは、「何か悪いことをしたためにこのような困難に遭うのだろうか」と言うものです。勿論ガラテヤ6:7に「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」とありますように、過去の失敗が今に影響していると言うことはありますが、私たちの理解を越えた出来事も起こります。
ペトロはそのような困難な時には次のように考えなさいと言っています。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(4:12)。第一に述べている点は「驚き怪しんではなりません」と言うことです。勿論困難に遭って動揺しない人はいませんが、「驚き怪しんではなりません」との意味は「神様に対する信頼が揺らぐようであってはなりません」と言うことです。
困難、試練に対する教えはヨブ記全体を通して教えていますが、特に2:10 に要約されています。
「『わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。』このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」。このような時にも神様を信頼する、信じる、これが信仰と言うことです。試練についてはパウロも述べています。コリントの信徒への手紙T10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
神様は全てをご存じであり、そこから必ず立ち上がることができると言うことを信じると言うことです。ヘブライ人への手紙では次のように述べています。12:11「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後(あと)になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
試練は喜ばしいものでありませんが、それによって更に信仰が高められる良い機会となっている訳です。
また、ペトロの手紙T4:13では「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」ともあります。
イエス様は何故あのような十字架刑という困難を通られたのでしょうか。それは私たちの苦しみを思いやることができるためと言うことができると思います。イエス様の苦しみを思うならば私たちはすべての苦しみに耐えることができるのではないでしょうか。神であるお方が人間が負う最終的な苦しみを通られました。
困難に遭う時、私たちはキリストの苦しみにあずかった事を喜ぶ者でありたいと思います。
ペトロがこの所で述べている点は特にキリストの名のために苦しみを受けると言うことについてです。4:14には「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」とあります。
私たちは神の真理を行う時、証言をする時、勿論そのまま受け入れられることを願っていますが、異教社会にあってはそうではないことが多いと思います。聖書の記された時代もそうでした。しかし、その証言はローマをキリスト教国と変えていきました。
異教社会にあっては非難されると言うことは、それだけ神の真理を行った、証言をしたとの証明でもあります。ですから、ペトロは「キリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださる」と言っている訳です。マタイによる福音書ではイエス様は次のように述べています。「5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
ペトロも4:16で「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と言っています。非難を受けると言うことはそれだけ神に近づいた証言でもあると言うことです。
4:17節からは神の裁きについて記されています。つまり、イエス様が再び来られる時について語っている訳です。私たちはすべての人が回心することを願い、望みを持っていますが、しかし、多くの国々ではなおクリスチャンが迫害に遭い、また、国と国、民族間での争いが止んでいません。しかし、イエス様が来られれば恒久的な平和が実現いたします。それはまた同時に世を裁くと言うことでもあります。
「4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。4:18 「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」
マタイによる福音書5:37に「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」とあります。私たちの成すべき事は「善い行いをし続け」ると言うことです。それ以上に出ることは「悪い者から出るのである。」と言うことです。
イエス様は私たちに真理の道を示してくださり、私たちの救いとなってくださいました。このお方から右にも左にも揺れることなく、信頼を寄せてまいりましょう。また、4:19節、「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」とあります。
主に信頼する者だけが、神様の遺産の相続人となり、その祝福に与る者であることを覚え体と思います。苦難の時こそ信仰が問われるときである事を覚えてまいりましょう。
<要約>
私たちが困難に遭う時、陥りやすい考えは「何か悪いことをしたためだろうか」と言うものです。勿論ガラテヤ6:7に「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」とありますように、過去の失敗が今に影響していると言うことはありますが、私たちの理解を越えた出来事も起こります。その様な時にペトロは「身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(4:12)と言っています。勿論困難に遭って動揺しない人はいませんが、「驚き怪しんではなりません」との意味は「神様に対する信頼が揺らぐようであってはなりません」と言うことです。困難における手本はヨブです。「『わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。』このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」(2:10)。このような時にも神様を信頼する、信じる、これが信仰と言うことです。試練についての教えは他に、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントT10:13)。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後(あと)になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)。試練は喜ばしいものでありませんが、それによって更に信仰が高められると言うことです。ペトロの手紙T4:13では「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」とあります。イエス様は十字架刑という困難を通られた故に私たちの苦しみを思いやることがおできになります。イエス様の苦しみを思うならば私たちはすべての苦しみに耐えることができるのではないでしょうか。神であられるお方が人間が負う最終的な苦しみを通られました。困難に遭う時、私たちはキリストの苦しみにあずかった事を喜ぶ者でありたいと思います。
ペトロが述べている点は特にキリストの名のために苦しみを受けると言うことです。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです」(4:14)。私たちは神の真理を行う時、証言をする時、異教社会にあっては非難される事の方が多くなります。ですから非難されればされるほどそれだけ神に近づいていると言う証明になる訳です。4:17節からは神の裁きについて記されていますが、その裁きは神の家から始められると言うことです。それでは割に合わないと感じますが、しかし、神様の側(そば)近くにいる人々と、神様から離れている人々との区別は、今もなお測りがたいほど大きいものであることを覚えたいと思います。4:19「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」。私たちの成すべき事は「善い行いをし続け」ると言うことです。それ以上に出ることは「悪い者から出るの」です(マタイ5:37)。どこまでも主に信頼する者だけが、神様の遺産の相続人となり、その祝福に与る者であることを覚えてまいりましょう。