ペトロの手紙T3:8〜16
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
今日のテーマは「真理に服従する」と言うことですが、ペトロの手紙を学ぶ時に、考えることは、ペトロはイエス様の一番弟子であったと言うことです。マタイによる福音書4:18を見るとペトロはアンデレの兄弟でイエス様が来られた時にはガリラヤ湖畔で漁をしていました。ペトロは漁師でありましたがイエス様の「人間をとる漁師にしよう」との招きに応えてイエス様に従っていきました。
その後福音書で弟子の名前が記される時には何時(いつ)も筆頭に記されていますから一番弟子と言っても良いと思います。ペトロはパウロのような学者ではありませんでしたが、それでも一番弟子であるペトロの著した神の真理と思うと、依り注意深く読もうという気持ちが起こります。
祝福の基となる
さて、今日の所でペトロは次のように述べています。「8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。
更にガラテヤ3:8に「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」とあります。つまり、私たちクリスチャンはアブラハムが祝福の基となったように、私たちも人々の祝福の基となっていると言うことです。
主を畏れる者
ですから私たちの行動、態度は「人々の祝福の基」に相応しいものであるよう心がけていかなければなりません。つまり、「8皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」と言うことです。今日のテーマは「真理に服従する」と言うことですが、その一つの柱は主を畏れると言うことです。つまり、主の前には如何(いか)なる時にも謙虚であることが求められていると言うことです。その様な態度がクリスチャンとしての相応しい性質を形作っていきます。
コリントの信徒への手紙U5:8に次のようにあります。
「5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。」とあります。「主を畏れる」、これがクリスチャンの基本的姿勢です。
コロサイ3:22にも、
「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい」。
コリントの信徒への手紙U7:1には、
「わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
(参考: 使徒言行録10:2、ヘブライ12:28、ペトロT2:17、ペトロU3:2)
敬意をもって接する
次にペトロが述べている点は「何時(いつ)でも未信者に対して福音の弁明ができるように備えていなさい」と言うことです。
「3:15 あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」。
ここでペトロはまず「16穏やかに、敬意をもって」と言っています。私は特に「敬意をもって」と言うことが重要であると言うことを感じています。駅前でのチラシ配布や、トラクト配布をしていますが、初めの頃はどういう姿勢で渡したら良いのか分からずに、「この人はきっと受け取ってくれないな」と思いながら渡すものですから、やっぱり受け取って貰えないという状態でした。そこで「あの人にとって私はよそ者じゃない」とか、「心を開いて渡そう」など改善がなされてきました。
そこで最終的なゴールだろうと思えるものが「敬意をもって」と言うことだろうと感じています。つまり「人は皆どのような人でも命を持っている以上『神のかたち』を持った唯一の尊い人です」と言う自覚と思いを持って渡すと言うことです。神様の前に謙虚であることはまた、人の前においても謙虚であることが求められていると言うことです。
勿論この事は、チラシ配布に限ったことではありません。全ての人に対する態度は、このような「敬意をもって」接すると言うことです。
善い生活
次に「3:16キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」とあるように、キリスト者は「キリストに結ばれた善い生活」をしていると言う事が必要があると言うことです。
悪いことをして悪く言われたと言うのでは証言になりませんが、良いことをして悪く言われるのであれば証言になります。勿論その場合でも「16穏やかに、敬意をもって」ということが求められています。
さて、問題は本当に私たちは「善い生活」ができているのだろうかという不安があるのでは無いでしょうか。実際ある聖書注解者は次のように言っています。「〈 イエスに従っていることを証明する確かな良心〉。この確かな良心なしには、すべて信仰の弁明は偽りの調子を帯びてくる。
キリスト教の弁証がしばしば何の価値もなくなるのは、いささかも不思議ではない。そのような弁証は、しばしば高所から確信的な誇りをもって行われ、自己の証明や弁舌で他人を打ち負かそうとする。しかし、このような教会の良心における欠陥(けっかん)が、かえってその教理や弁明を弱める結果になる。」
友人知人、また家族に「キリストは私たちの希望です」と言う時、生活の中でその信仰が現されていない場合は、強く言えば言うほど実際とのギャップが大きくなって偽りの調子を帯びてくると言うことが避けられなくなってきます。
だからと言って弱々しく言っても結果は同じです。
もし、私たちが本当にキリストを信じ、人々にも信じて欲しいと願うならば、生活のすべてにおいて真理に服従する事以外には方法はありません。
ペトロの手紙T1:22に
「1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」とあります。新共同訳では「真理を受け入れて」となっていますが口語訳では「真理に従うことによって」と訳しています。私たちは神を畏れ、真理に服従する事以外に自らを清めることはできません。私たちは真理を受け入れることによって自分の中にある悪を外に追い出すことができます。
また、ペトロの手紙T2:1に、
「2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」とあります。
ここで述べられている「霊の乳」も神の真理のことです。神の真理を飲むとは「真理に服従する」と言うことです。これによって私たちは初めて、成長が始まります。
2:2節で述べている「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」と言うのは、「混じりけのある乳」では成長できませんよと言うことです。神の真理はそれに言い訳をしたり一部分だけを取り入れたりと言うのでは真理ということが出来ません。私たちが成長するためには純度100%の霊の乳を必要としています。
霊の乳によって育ったクリスチャンに対してペトロは「3:16キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」といっています。
また、人々への弁明には「3:16穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」と勧めています。
私たちは主を畏れる者として、善い生活を現わし、敬意をもって接し、人々の祝福の基となる者となりましょう。
<要約>
ガラテヤ3:9に「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」とあるように私たちは人々の祝福の基となっています。ですから私たちの行動、態度にも「人々の祝福の基」に相応しいものであることが求められています。つまり、「兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(ペトロT3:8)と言うことです。「真理に服従する」ことの第一は主を畏れると言うことです。私たちクリスチャンは主の前には如何(いか)なる時にも謙虚であることが求められています。その様な態度がクリスチャンとしての相応しい性質を形作っていきます。聖書は次のように言っています。「人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい」(コロサイ3:22)。「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(コリントU7:1)。ペトロの述べている次の点は「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」(ヘトロT3:15、16)と言うことです。ここでペトロはまず「16穏やかに、敬意をもって」と言っています。特に「敬意をもって」と言うことが重要です。人は皆どのような人でも命を持っている以上「神のかたち」を持った唯一の尊い人です。神様の前に謙虚であることはまた、人の前においても謙虚であることが求められます。
第二に「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」(3:16)とありますように、普段の生活が「善い生活」である必要があります。ある聖書注解者は次のように言っています。「さらにイエスが栄光のうちに現れることを望んでいるだけでなく、イエスに従っていることを証明する確かな良心である。この確かな良心なしには、すべて信仰の弁明は偽りの調子を帯びてくる。キリスト教の弁証がしばしば何の価値もなくなるのは、いささかも不思議ではない。そのような弁証は、しばしば高所から確信的な誇りをもって行われ、自己の証明や弁舌で他人を打ち負かそうとする。しかし、このような教会の良心における欠陥(けっかん)が、かえってその教理や弁明を弱める結果になる」。友人知人、また家族に「キリストは私の希望です」と言う時、生活の中でその信仰が現されていない場合は、強く言えば言うほど実際とのギャップが大きくなって偽りの調子を帯びてくることになります。もし私たちが本当にキリストを信じ、人々にも信じて欲しいと願うならば、生活のすべてにおいて真理に服従する事以外に方法はありません。また「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ペトロT2:2)とあります。混じりけのない純粋な神の真理を受け取る以外に「善い生活」を現すことはできません。