イザヤ書 2:6〜22
2:6 あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように/東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ。2:7 この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。2:8 この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。2:10 岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:11 その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる。2:12 万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――2:13 高くそびえ立つレバノン杉のすべてに/バシャンの樫の木のすべてに2:14 高い山、そびえ立つ峰のすべてに2:15 高い塔、堅固な城壁のすべてに2:16 タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。2:17 その日には、誇る者は卑しめられ/傲慢な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる。2:18 偶像はことごとく滅びる。
2:19 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
2:20 その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える。2:21 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:22 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。
イザヤは南王国ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活動した預言者です。この時代は、かつてのダビデ、ソロモンの時代とは違い、周辺諸国との関係が国の安定に大きな影響を与えていました。
そのような中でイザヤは、ユダの人々が神の義を求めず、神に仕えることを疎(おろそ)かにし、諸国の国々に頼り、豊かさと安定だけを求め、より安易な偶像に仕えるという状態に対して、警告を発していました。
6節では「東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ。」とあります。かつてのカナンを滅ぼし、その偶像と不品行と不道徳を滅ぼすようにとの使命は地に落ち、ただ、今の豊かさをどうしたら維持できるだろうか、その事にしか考えが及ばず、
自分たちの世界のリーダーとしての神にのみ仕えよとの使命を忘れ去っていました。
そこで神の言葉は(2:6)「あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。」との事態に至りました。
この世界を統治されておられる方は私たちの主であると言うことを私たちは思い起こさなければなりません。すべての祝福の基は神様によってもたらされるものであることを思い起こす必要があります。
神に捨てられて立ち行く国はない訳です。
7節「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。2:8 この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。」
現代社会においても物質至上主義が広く行き渡っています。そのような考え方は教会であっても例外ではなくなってきています。
給与支払いに成果主義という考え方が入ってきていますが、だからと言って結果だけが良ければよいという訳では勿論ありません。その方法や過程が重視されるのは当然です。成果主義と言われると、ともすると結果のみに走りがちになりますが、注意が必要です。
私たちクリスチャンは何にも先だって神の義が打ち立てられることを第一としなければなりません。クリスチャンがその使命を失ったならば、何によってこの世が救われるでしょうか。マタイによる福音書5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
これがイエス様からの私たちへのメッセージです。
私は「今を生きる信仰」というものを皆さんにお勧めしていますが、先日facebookにパスカルの言葉が紹介されていて、正(まさ)に今を生きる信仰について述べていると言うことに気付きました。即ち「私たちは今を生きてはいない。将来生きたいと願っているだけだ。そして、常に幸せになるのを待ち望んでいる。だから今、幸せでないのは当然のことなのだ」と言うものです。
実に現代は忙しい日々を私たちは送っています。明日の行事のために今日やるべき事を奴隷のように強いられていると言うのが、今を生きていない人生です。そうではなく今していることを楽しんで行う、と言うのが今を生きると言うことです。
すべての活動を明日のためにではなく、今の現実と捉え、これを丁寧にじっくりと、大切に、楽しんで行います。
そして幸せの原点は勿論「感謝」と言うことです。テサロニケの信徒への手紙T5:16「いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とある通りです。
今現在が既に恵まれている状態であると言うことを思い起こさなければなりません。既に私たちは十分祝福された一人一人であることを覚えたいと思います。今を感謝しなさい、これがイエス様からのメッセージです。今の現実が既に恵まれた状態です、ですから感謝しなさい。これがイエス様からのメッセージであり、幸せの原点です。
産業革命以来、私たちは忙しい毎日を送るようになってきてしまいましたが、これも神様から離れて、見えるものによって人生を建て上げようとしている誤りから来ているものです。イザヤは言っています。「神にのみ仕えよ」と。これが、祝福の原点です。
イザヤ書2:18「偶像はことごとく滅びる。2:19 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:20 その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える。2:21 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:22 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」
この世界は二つに分けることが出来ます。即ち見える世界と見えない世界です。そして神の霊によってこの見える世界が統治されていることを思い見なければなりません。「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。」(2:22)。私たちは人を恐れるのではなく、神を恐れる者でなければなりません。
ヤコブ4:4に「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」と警告しています。
南王国ユダはバビロンへの捕囚を経験しましたが、しかし、その後のイスラエル人は偶像礼拝に走ることはなくなりました。そしてイエス・キリストの誕生に寄与したことは記憶されなければなりません。
私たちはもう一度祝福の原点である「神にのみ仕えよ」とのメッセージに耳を傾けたいと思います。
速さや成果ではなく神の正義が実現していることの方が重要です。神によみせられることを喜びとする者である必要があります。
<要約>
南王国ユダは周辺諸国との関係によって国の安定を得ようとし、神の義を求めることを疎かにしていました。イザヤは警告しています。「あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように、東方の占い師と魔術師を国に満たし、異国の子らと手を結んだからだ。」(2:6)。この世界を統治されておられる方は私たちの主であると言うことを私たちは思い起こさなければなりません。すべての祝福の基は神様によってもたらされるものであることを思い起こす必要があります。神に捨てられて立ち行く国はないということです。7節「この国は銀と金とに満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。2:8この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す。2:9人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように」。現代社会においても物質至上主義が広く行き渡っています。そのような考え方は教会であっても例外ではなくなってきています。
私たちクリスチャンは何にも先だって神の義が打ち立てられることを第一としなければなりません。クリスチャンがその使命を失ったならば、何によってこの世が救われるでしょうか。マタイによる福音書5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。これがイエス様からの私たちへのメッセージです。産業革命以来、私たちは忙しい毎日を送るようになってきてしまいましたが、これも神様から離れて、見えるものによって人生を建て上げようとしている誤りから来ているものです。イザヤは言っています。「神にのみ仕えよ」と。これが、祝福の原点です。イザヤ書2章「2:18偶像はことごとく滅びる。2:19主が立って地を揺り動かされるとき、岩の洞穴、地の中の穴に入るがよい、主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。・・・2:22人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。この世界は二つに分けることが出来ます。即ち見える世界と見えない世界です。そして神の霊によってこの見える世界が統治されていることを思い見なければなりません。「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。」(2:22)。私たちは人を恐れるのではなく、神を恐れる者でなければなりません。速さや成果ではなく神の正義が実現していることの方が重要です。神によみせられることを喜びとする者である必要があります。