ルカによる福音書10:30〜35
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
「今を楽しむ信仰」と言うテーマは、少し軽薄に思われるかもしれませんが、ネヘミヤ記8:10に「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とありますから、人生を喜び、楽しむことは大変良いことであり、遠慮する必要はないと思います。また「楽しむ」と言う中には、今現在を大切にするという意味が含まれていると言うことも覚えて頂きたいと思います。
「今を楽しむ信仰」の第一のみ言葉はマタイによる福音書6:26です。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」とあります。
この所では「思い悩むな」と言う見出しが付いていますが、思い悩むと言うのは主(おも)に明日のことについて思い悩むと言うことです。または、未来のことについて思い悩むと言うことです。未来の不安についてはイエス様は、「わたしに従っているのであれば何も心配することはありません」、と述べています。そして未来の不安のために今を楽しむことを疎(おろそ)かにしてはいけませんよ、と述べている訳です。ですから「思い悩むな」と言うのは未来の不安よりも今現在の方が大切です、と言う意味です。
人生には過去と現在と未来がありますが、クリスチャンには過去には赦しがあり、現在には楽しむことが勧められ、未来には希望が約束されています。そして、人生は今現在の積み重ねである訳です。ですから過去の失敗に囚われることなく、未来の不安に振り回されることなく、今現在を大切にすることが求められていると言うことが出来ます。
マタイによる福音書6:34では、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。ここでは「楽しむ」ではなく、「労苦」とありますが、今日(きょう)一日の労苦が終わったならば、安心して休みなさいと言うことです。ヨブ記11:18には「希望があるので安心していられる。安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り19うずくまって眠れば、脅かす者はない。」とあります。「労苦」であっても、それが永遠に続くことはありません。ですから「労苦」をも楽しみなさい、と受け取ることができます。
今までの説明は「思い悩むな」と言うテーマを積極的に捉えた説明です。つまり、「今現在を楽しみなさい」と言うことでした。次に「思い悩むな」を消極的に捉えるならば次のように言うことができます。つまり、「今現在を軽んじてはならない」と言うことです。人は皆目標を立ててその実現に向けて励んでいます。仕事においてもそうでしょう。また、一般の生活の中においても目標を立ててそれに向かって活動しています。
ですから、ともすると買い物に行ってもお店の人と機械的な必要最小限の会話しかしなかったとか、近所の人と出会っても最小限の挨拶しかしなかった、と言うことがあるかもしれません。もっと「今現在を大切に」という視点に立つならば、もっと豊かな人間関係が築けるのではないかと考えます。こういう面では特に女性は優れているのではないかと思います。
また、目の前で起こった突発的な出来事についても、それらを無視したり、「私は先を急いでいるので」と言うような考え方をしなくなるのではないかと思います。
先程も言いましたが未来のことよりも今現在の方が大切です。先のことよりも目の前の現実の方を大切にする必要があります。目の前の現実の為に未来の予定を諦(あきら)める方がよりクリスチャン的と言うことができると思います。私が今年の春にひったくり犯を追いかけた時もそうでした。午後3時近くになって銀行に行って記帳してこなければと思って八木橋の前まで行った時に、その事件に出会いました。被害者のことを思えばできるだけのことはして上げるべきだと考えました。途中捕まえるのは無理かなと思った時がありましたが、自分の予定を諦めた時に、体力が続く限り追いかけようと決心することができました。
さて今日のテキストであります、良きサマリア人(じん)の譬えではどうだったでしょうか。エルサレムからエリコに行く道で追いはぎに襲われた人が、道端に横たわっていました。そこに初めに祭司が通りかかりました。が、道の向こう側を通って行ってしまいました。次にレビ人(びと)も通りかかりましたが、やはり同じように道の向こう側を通って行ってしまいました。
勿論、ここで色々な想定をすることが出来ますが私はこの二人に共通していることは、今を大切にしていない、あるいは目の前の現実を軽視してると言うことです。未来の心配のためか、未来の予定を諦めることが出来ないためかは分かりませんが、何(いず)れにしても、目の前の現実に目をつぶらないで、出来るだけのことをしていくならば、彼らは豊かな人生を送ることが出来たはずです。そこにはドラマがあったとも言うことが出来ると思います。
しかし、この二人には何も起こらず、折角の人生を薄っぺらな、ありきたりの人生にしています。
この二人に比べ、3人目に通りかかった、サマリア人は今を生きる人でした。彼にもその日の予定があり計画があったことでしょう。しかし、未来のことはどのようにでも変更することが出来ると考え、目の前で起こっていることに対して、出来るだけのことをしています。追いはぎに襲われた人の傷の手当てをして上げ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日には宿屋の主人に費用を払って彼の介抱をお願いして行きました。
さてこの出来事を通して追いはぎに襲われた人と、サマリア人との関係はどのようなものになったでしょうか。それはサマリア人が人々から悪く言われるようなことがあったとしても、追いはぎに襲われた人は言うでしょう。「あの人を私は信じています。あの人はそんなことをする人ではありません」と言うことでしょう。
また、天国の門の前でイエス様に言うでしょう。「あの人を天国に入れてやってください。あの人は私に良いことをしてくれたのですから」。
如何でしょうか。「今を楽しむ信仰」、つまり目の前の現実を大切にして行く人生が如何に豊かな人生であるかと言うことにお気づき頂だけたでしょうか。自分で描いた未来の予定だけを大事に生きている人には、このような豊かさを期待することが出来ません。
人生とは今現在の積み重ねです。先の予定よりも、今、目の前で起こっていることの方が大切です。
マタイ6:26-27「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。
今、目の前に居る人を大切にしていきましょう。
それが「今を楽しむ信仰」です。
<要約>
マタイ6:27には「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とあります。「思い悩む」と言うのは主(おも)に明日のことについて思い悩むと言うことです。未来の不安についてはイエス様は、「わたしに従っているのであれば何も心配することはありません」(マタイ11:28)、と述べています。そして未来の不安のために今を楽しむことを疎(おろそ)かにしてはいけませんよ、あるいは今現在を大切にしましょうと言っています。人生には過去と現在と未来がありますが、今現在の積み重ねが人生です。ですから今現在を大切にすることが求められていると言うことが出来ます。また言い方を変えれば「今現在を軽んじてはならない」と言うことが出来ます。人は皆目標を立ててその実現に向けて励んでいます。仕事においても、一般生活の中においても目標を立ててそれに向かって活動しています。
ですから、ともすると買い物に行ってもお店の人と機械的な必要最小限の会話しかしなかったとか、近所の人と出会っても最小限の挨拶しかしなかった、と言うことがあるかもしれません。もっと「今現在を大切に」という視点に立つならば、もっと豊かな人間関係が築けるのではないかと考えます。また、目の前で起こった突発的な出来事についても、それらを無視したり、「私は先を急いでいるので」と言うような考え方をしなくなるのではないかと思います。今現在の方がより大切ですから、先のことよりも目の前の現実の方を大切にする必要があります。目の前の現実の為に未来の予定を諦(あきら)める方がよりクリスチャン的と言うことができると思います。
良きサマリア人(じん)の譬えでは追いはぎに襲われた人が、道端に横たわっていましたが、祭司もレビ人(びと)も道の向こう側を通って行ってしまいました。この二人に共通していることは、今を大切にしていない、あるいは目の前の現実を軽視してると言うことです。未来の心配のためか、未来の予定を諦めることが出来ないためか、何(いず)れにしても、目の前の現実に目をつぶってしまったと言うことです。彼らが目の前の現実を大切にする信仰を持っていたならば、倒れている人の隣人になることが出来、より豊かな人生を生きることが出来た事でしょう。しかし、この二人には何も起こりませんでした。この二人に比べ、サマリア人は今を生きる人でした。隣人としての務めを果たしました。この出来事を通して追いはぎに襲われた人とサマリア人との関係はどのようなものになったでしょうか。それはサマリア人は自分を応援してくれる友を得たと言うことです。また天国への推薦人を得たと言うことです。「今を楽しむ信仰」、つまり目の前の現実を大切にして行く人生は豊かな人生ということが出来ます。自分で描いた未来の予定だけを大事に生きている人には、このような豊かさを期待することが出来ません。