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「使命に生きる」(100919ku)
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ローマの信徒への手紙6:11
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
 
 
皆さんは、自分が生まれて来た目的をどのように理解しているでしょうか。キリストに繋がるまでは世の中の流れに影響され、右へ左へと言うことがあったと思います。しかし、私たちはキリストに結ばれることによってその目的が明瞭になってきました。
 
創世記1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 神様は私たちに命を与えてくださいました。ですから、私たちにはその命を輝かせる、と言う使命があります。私たちが頂いている命には沢山の能力が秘められています。それを十分に用いる、これが命を与えてくださった神様への感謝を表す方法です。
 以前に労働の祝福というテーマでお話ししましたが勤勉であるべき理由がここにあります。
 
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
 
人生の目的の第二には地上を治めなさいと言うことです。地上を治めるという時の最初の使命は家族を治めると言うことです。しかし、これが一番重要で、一番難しいと言えます。何故かというと家族や親族には良い所だけを見て貰うと言うことが困難であるからです。子供は親の背中を見て育つと言われているように、方法論では家族を治めることは出来ません。
自分の性質が神様の性質を帯びている必要があります。神様と一体感を持ち、「イエス・キリストを知りたければ私を見てください」と言えるようになる必要があります。
 
8月には郷里に帰ってきましたがやはり、歳と共にこの世的な課題を抱えていることを伺いました。また歳と共に勢いと希望が失われてきているように感じられました。
キリストの救いを受けているならば老いは祝福であり、いよいよイエス様の懐に憩う日が待たれる日々であって、歳と共に希望に満ちた人生となることが出来ます。
 そういう意味で家族や親族、友人への働きかけをしなければという思いが強くなってきています。
 
地上を治めることの第二には、社会への働きかけです。社会が福音化されていないことの悲劇は毎日のニュースに現れています。駅前でのトラクト配布をしていますが、お話を聞くと多くの人が家庭が壊れているか、その影響を受けていると言うことです。人々は神の国の原則によって生きること、神の言葉の範囲の中で生きる事が、豊かな人生であり、自由に生きる秘訣であることを知りません。
ですから、その時々の欲求のままに流されてしまい、身動きの取れない状態に陥っています。
 
このように私たちクリスチャンが社会に対して持っている責任は、重大で、緊急なものです。トラクト配布などをしていると、こんな姿を人はどう見ているだろうとか。どう見えるだろうとかと、人の視線が気になるのですが、しかし、宣教の働きは自分を良く見せるために行っている訳ではありません。人々に良い知らせを告げるための働きです。
 イエス様も群衆を見て憐れまれたと言っています。マタイ9:36「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。
 
サンデー牧師は宣教の進まない現状に対して、次のように言っています。「教会意識を持っているクリスチャンの多くは臆病で弱腰ですが、自分は謙遜なつもりです。祈りに熱中していますが、実際は戦いを避けているだけです。」と指摘しています。
 私はこの指摘は当たっていると思います。神様からの宝である福音を手にしている私たちはもっと果敢に人々の間に出て行くべきです。それが出来ていないのは、自分に死んでいないために、失敗を恐れていると言うことです。
 この本質は自己中心主義です。謙虚さや実用的な考え方に姿を変えていますが、自分が気になって仕方ありません。それは自分が快適であればそれでよいとする生き方であり、神の国の利益を求めるのではなく、自分自身の利益を求めていると言うことです。
 
本当に謙遜な人は、神の導きに身を任せ、結果を気にしません。自分に死に、キリストの中に生きているのであって、自分自身のために生きているのではないからです。キリストが救い出してくださるまで地獄に向かっていた私たちは、もはや自分自身の人生を仕切ることはしません。仕切っておられるのはキリストです。私たちは神の御心に従います。生死にかかわることになっても。
 
「マタイ16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
「2コリ5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」とあります。
 
私たちは自分自身を整えますが、それも自分のためではなく人のためであり、日常の働きにおいても、それは私がするのではなくキリストの働きとして行います。
「コロサ3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」とある通りです。
 
ローマ6:11「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
日常の働きから、宣教の働きまで、私たちの行動の原点は「神に対して生きている」と言うことです。自分自身のために働いているのではありません。神様からの使命として働いています。
 ですからその働きに専念している時は「自分が亡くなっている」状態ということが出来ます。神様の視点に立ってその働きが進められます。
 
大衆の面前での活動は、人の視線が気になりますが、神の代理者としての自覚を持ち、また神の使命に生きていることを自覚する時、それらの思いから解放されます。これも勿論、繰り返しの練習と訓練が必要です。
 
使命に生きる者、神に生きている者であることが出来るよう努めてまいりましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 創世記1:27には「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」とあります。神様は私たちに命を与えてくださいました。ですから、私たちにはその命を輝かせる、と言う使命があります。私たちが頂いている命には沢山の能力が秘められています。それを十分に用いる、これが命を与えてくださった神様への感謝を表す方法です。1:28節「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」第二には地上を治めなさいと言うことです。その第一は家族を治めると言うことです。子供は親の背中を見て育つと言われているように、方法論ではなく自分の性質が神様の性質を帯びていると言うことが必要です。神様と一体感を持ち、「イエス・キリストを知りたければ私を見てください」と言えるようにいたしましょう。
 
第二には社会が福音化されていないことの悲劇が日々伝えられていることです。私たちクリスチャンが社会に対して持っている責任は、重大で緊急なものです。トラクト配布やその他宣教活動では人の視線が気になるのですが、しかし、宣教の働きは自分を良く見せるために行っているのではなく人々に良い知らせを告げるための働きです。人を恐れたり気にするのは自分に死んでいないためにであり、その本質は自己中心主義です。イエス様は言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)。また「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は・・・自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(2コリ5:15)とあります。ローマ6:11「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」日常の働きから、宣教の働きまで、私たちの行動の原点は「神に対して生きている」と言うことです。自分自身のために働いているのではありません。この時に「自分が亡くなる」経験をすることが出来ます。使命に生きる者、神に生きている者であることが出来るよう努めてまいりましょう。