イザヤ書 49:2〜3
49:2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
49:3 わたしに言われた、あなたはわたしの僕、イスラエル、あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
私たち人間は長く神を離れ、自分たちだけで如何に生きるべきかという答えを探してきました。しかし、そこでは人間の弱さである、お金や情欲という誘(いざな)いに勝利することはありませんでした。
しかし、さらに問題なのは神に立ち返ったはずのクリスチャンでもまだ、以前の弱さから解放されていないという点です。
ローマ3:23(リビングバイブル)「すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。」とあります。
世界は今、神の救いを必要とし、求めています。「神の輝かしい標準」によって救われることを願っています。
私たちの子供や親戚、友人、知人が世の悪によって蝕(むしば)まれ、傷ついています。
「神の栄光のために造られた」はずの人類が空しさと惑わしの中に捨て置かれています。その様な人々の救いのためにイエス・キリストは、もう一度神と共に歩む人生の道を造られました。そして今、キリストの弟子として私たちは立てられています。
クリスチャンが社会で活動的な立場を取ることによって、周りの人々を神の国のために勝ち取ることができます。私たち一人一人は神の栄光の使命を持っています。それは社会の中で、如何に人々に、神を現すかと言うことに掛かっています。
人々は今私たちを待っています。人々と国々が、クリスチャンの行動を待っています。彼らは神とその真理を切実に必要としています。
物質的には豊かな人たちも、魂は飢え渇き、裏切り、偽り、欺きによって心は傷ついています。世は神を、また私たちを必要としています。私たちは神の栄光の使命を帯びた神の大使です。すべての人は「神の栄光のために造られ」ました。ですから、世の人々を惑わしと空しさから解放し、暗闇に勝利しなければなりません。
イザヤ書49:2-3
「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖(とが)らせた矢として矢筒の中に隠して、:3 わたしに言われた、あなたはわたしの僕、イスラエル、あなたによってわたしの輝きは現れる、と。」
すべてのクリスチャンは神の矢筒の中の研ぎ澄まされた矢として神の栄光のために造られました。神の子どもとして、私たちは地上における神の武器とならなければなりません。
神様は私たちをこの世を救う切り札として用いようとしています。
しかし、初めに述べましたようにクリスチャン自身がまだ「神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。」と言っているようでは、とても神の武器、研ぎ澄まされた矢と言うことは出来ません。
私たちは神の武器、研ぎ澄まされた矢となるために何が不足しているのでしょうか。それは第一に先週述べたことですが罪に対する完全な勝利と言うことです。繰り返しになりますが、これは自らの祝福にも繋がっているものであり、また尽きない希望に繋がっているものです。罪に対する勝利の明らかな点は神の立場に自分を置くと言うことです。
つまりすべての人を愛し、決して人を悪く言わないと言うことです。また、情欲によって生きることをしないと言うことです。
また、神に対して決してつぶやかないと決意をすると言うことです。私たちにはまだ理解のできないことが起こるでしょう。しかし、神様が私たちを祝福しようとしていることは決して変わることはありません。これを信じることが信仰です。ここから、右にも左にも逸(そ)れることのないように致しましょう。
そして今日(きょう)、皆さんにして頂きたいのですが「罪に対して完全に勝利しました」。あるいは「罪に対して完全に勝利します」と宣言して頂きたいと思います。「神の言葉の範囲の中で生きていきます」と宣言して頂ければと思います。
そして、神に対して全き献身をしてください。そうでなければ神の矢となることはできませんし、また、神の祝福も受け取ることができません。
私たちは今まで神の救いと、神の祝福について知ってはいました。また神を信じますと宣言も致しました。しかし、全き献身をしていないので、世の人々とほとんど変わらないという状況です。
今日からは、行いにおいて神を現して行きたいと思います。すべての人を愛していると言う事を行動によって現しましょう。
神様にすべてを献げたのであれば、神様の持っているものは全て私たちのものでもあります。神様の約束は必ず実現すると言うことを信じることができるようになります。そうです。この日本もキリストのものとして献げられると言うことを信じることができます。
尽きることのない希望を手にされたでしょうか。
世は積極的に行動するクリスチャンを必要としています。世は神の矢を待(ま)っています。彼らは問題と危機に対する答えを必要としています。私たちはこの世界になくてはならない存在です。しかし、効果的であるためには、矢のように準備されなければなりません。的を射ることができるように、研ぎ澄まされ、聖められなければなりません。
クリスチャンは世が必要としている真理を運ぶ者たちです。神の目的を果たし、神の国を地上に、そして国々を建て上げてまいりましょう。
<要約>
世界は今、神の救いを必要とし、求めています。「神の輝かしい標準」(ローマ3:23)によって救われることを願っています。私たちの子供や親戚、友人、知人が世の悪によって蝕まれ、傷ついています。「神の栄光のために造られた」はずの人類が空しさと惑わしの中に捨て置かれています。クリスチャンが社会で活動的な立場を取ることによって、周りの人々を神の国のために勝ち取ることができます。人々は今私たちを待っています。人々と国々が、クリスチャンの行動を待っています。彼らは神とその真理を切実に必要としています。物質的には豊かな人たちも、魂は飢え渇き、裏切り、偽り、欺きによって心は傷ついています。ですから、世の人々を惑わしと空しさから解放し、暗闇に勝利しなければなりません。「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して、・・・」(イザヤ書49:2-3)。すべてのクリスチャンは神の矢筒の中の研ぎ澄まされた矢として、神の武器とされています。神様は私たちをこの世を救う切り札として用いようとしています。
しかし、クリスチャン自身が「神の輝かしい標準にはほど遠い存在です」(ローマ3:23)と言うことでは、神の武器、研ぎ澄まされた矢と言うことが出来ません。いったい何が不足しているのでしょうか。それは第一に罪に対する完全な勝利と言うことです。これはまた自らの祝福にも繋がっているものであり、尽きない希望に繋がっているものです。罪に対する勝利の明らかな点は神の立場に自分を置くと言うことです。つまり@すべての人を愛し、決して人を悪く言わない。A情欲によって生きることをしない。B神に対して決してつぶやかないと言うことです。私たちにはまだ理解のできないことが起こるでしょう。しかし、神様が私たちを祝福しようとしていることは決して変わることはありません(ヨハネ10:10)。これを信じることが信仰です。ここから、右にも左にも逸れることのないように致しましょう。そして今日「罪に対して完全に勝利しました」と宣言いたしましょう。私たちは今まで全き献身をしていないので、世の人々とほとんど変わらないという状況です。神に対して全き献身をいたしましょう。神様にすべてを献げたのであれば、神様の持っているものは全て私たちのものです。また神様の約束は必ず実現すると信じることができるようになります。神の矢として効果的に的を射ることができるように、研ぎ澄まされ、聖められてまいりましょう。