ヨハネの手紙T1:5〜7
1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
今日は「聖潔に入る」と言うことについて学んでいきます。もちろん学ぶだけではなく「聖潔に入る」と言うことを実施する時としていきたいと思います。
第一に「聖潔」の必要性について述べますと、例えば皆さんはイエス・キリストの信仰に入ったのだからそれ以上の信仰に入る必要はないのでないか、今のままで満足しています、と言うかもしれません。しかしこれについては常日頃述べていることですが、私たちは楽園の住人としての性質に回帰すべきだとするならば、そのためには「聖潔に入る」ことが絶対条件になってきます。
また、パワー・フォー・リビングではガチョウは地を這うような生態であるが本来は渡り鳥のガンであってガンが何千メートルもの上空を飛ぶように、私たちも信仰が成長して本来の性質に回帰すべきだと述べています。
また、現実的な問題として、「聖潔」に至っていない内は、罪と同居している状態であって、常に失敗をする危険にさらされ、その度に反省し、悔い改め、再スタートするというサイクルを繰り返しているため、信仰による祝福を十分に受け取っているとは言えない状態であるわけです。
第二に「聖潔」とは何か、と言う点につて知っていなければなりません。今までの説明でほぼ理解できることですが、聖潔とは回心や、救いとは違うと言うことです。回心や、救いは自分の人生を神様にお委ねしたのであって、それはそれなりに素晴らしい、新生の恵を経験いたしましたが、信仰全体から見るとまだスタートしたばかりの状態です。過去の罪は赦されていますが、なを罪の根が残っている状態です。
この罪の根のことをパウロはローマの信徒への手紙8:7で「肉の思い」と言っています。
「8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」とあります。
7:24では「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」とも言っています。
エフェソの信徒への手紙4:22では「古い人」と言っています。
「4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。
コロサイの信徒への手紙3:9にも同じく述べられています。
「3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
ガラテヤの信徒への手紙5:17では「肉」と言っています。
「5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」
回心し、信仰に入った時にはその開放感から喜びに満たされますが、信仰生活を続けていく中で、なお自分には神の性質に反する思いが潜んでいることに気付き、モグラたたきをするように日夜戦わなければなりません。
またこの状態は地上における間は逃れられないものだと考えている人がいるかもしれませんが、聖書にはそのようにはどこにも記されていません。
聖潔とはこのような不安定な状態からの解放を意味しています。
また、聖潔は信仰の成長によって得られるものでもないと言うことです。もちろん成長がなければ「聖潔に入る」事はできませんが成長するだけで得られるものではないと言うことです。信仰の成長によって不安定さの度合いは安定に向かいはするけれども、それはあくまでも度合いの域を超えることは出来ないと言うことです。
第三に、ではどのようにして「聖潔に入る」か、と言う点ですが、それは一瞬にして与えられるものであると言うことです。
エフェソの信徒への手紙4:22では次のように述べられています。
「4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
第一に「古い人を脱ぎ捨て」、「心の底から新たにされて」、「新しい人を身に着け」とあります。つまり「古い人を脱ぎ捨て」、「心の底から新たにされて」、「新しい人を身に着け」というのは少しずつ脱ぎ捨てたり、少しずつ身に着けると言うのではないと言うことです。
ヨハネの手紙T1:7では、
「1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」とあります。
つまり「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められ」ると言うことです。
いくらかの罪ではなく、あらゆる罪から清められると言うことです。
ヨハネの手紙T3:8では、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とあります。イエス・キリストは「悪魔の働きを滅ぼすために」、地上にお降り立ち、十字架と復活とを成し遂げられました。
「聖潔に入る」とはタバコを止めた経験のある人は分かると思いますが、タバコは私の人生に無用なものだと、理解した時にタバコから完全に離れることができます。
罪から離れるというのもこれと同じです。「肉の思い」、「古い人」は私の人生に無用なものだと、理解した時にそれらの罪から完全に離れることができます。そしてその決心を導き、継続させてくれるものが聖霊の働きです。
私たちは自尊心を傷つけられる、あるいは支配欲が燃え上がる、その様な時にサタンが入ってこようとしますが、イエス・キリストの血が、これらの思いを消し去ってくれます。
何故なら「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(ヨハネT3:8)とあるからです。
私は2008年にこの「聖潔に入る」経験をいたしました。それ以来、以前のような葛藤に悩むようなことはなくなりました。「肉の思い」、「古い人」が現れる時にも即座に、私の人生には無用のものとしてあっさりと退けられるようになりました。
ヨハネの手紙T
1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
<要約>
第一、「聖潔」の必要性 私たちは楽園の住人としての性質に回帰するよう招かれていますがそのためには「聖潔に入る」ことが絶対条件になってきます。現実的な問題としては「聖潔」に至っていない内は、罪と同居しているクリスチャンであって常に失敗をする危険にさらされ、その度に反省し、悔い改め、再スタートするというサイクルを繰り返しているため、信仰による祝福を十分に受け取っていません。聖潔に入ることによって成長が可能になります。第二、「聖潔」とは何か 罪(の根)が誘惑とならない状態です。人は3種に分けられます。1未信者、2信仰者(罪と同居)、3聖潔の人。罪の根のことをパウロは「肉の思い」(ローマ8:7)と言っています。「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同7:24)とあり、神と共に歩んでいますがなお罪との戦いが続いています。同じくガラテヤの信徒への手紙5:17では「肉」と言っています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。
第三、いかにして「聖潔に入る」か 3つ(種)の世界があることを理解し第3の世界に入る決心をすることです。聖潔に入ると、もう2や1に戻ることはありません。即ち聖潔は一瞬にして与えられるものであり、聖霊が助け手となってくださいます。エフェソの信徒への手紙4:22-24では次のように述べられています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。イエス様は私たちが聖潔に入るために世に来てくださいました。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(ヨハネT1:7)。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(同3:8)。「聖潔に入る」とはタバコを止める時に、タバコのある世界から、タバコのない世界に入ることによって実現するように「聖潔に入る」のも罪はもう私には何の影響も与えません、と宣言することです。イエス・キリストの故に感謝を捧げます。