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「全く潔められた生活」(140406kan)

資料 聖潔への道

ガラテヤの信徒への手紙 5:22〜26
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
 
 
皆様の中に聖潔に入っている人はおられるでしょうか。
「霊の結ぶ実」の第一のものは「愛」です。これは神様の性質の第一のものでもあります。ですからクリスチャンはなにを差し置いても、「愛」の人とならなければ成りません。
 私は結婚する前は、聖書をだいぶ読んでいるので、十分に愛の人になっているだろう、と思っていました。所が結婚してみると、ほとんどの場合自分のことが優先され、妻のために自分のことを後回しにしたり、自分を犠牲にするということをしていない、と言うことに気が付きました。
 つまり、聖書を読むには読んだけれども全然愛の人にはなっていなかったと言うことです。聖書は愛について「13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントT13:4-7)とあります。
 また、ヨハネによる福音書15:13には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とあります。 愛の最終的な意味は自分の命、或(ある)いは時間を相手に差し出すと言うことです。命とはつまり時間のことです。どれだけの時間を友に与えたかと言うことです。
 
つまり、自分はサッカーの番組を見たいけれども、それを諦めて、フィギアスケートを見る、とかですね、野球の試合を見に行きたいけど、それを諦めて、デパートに買い物に行くと言うようなことになります。
或いは、貯()まってきた仕事を片付けに行こうと思ったことを、諦めて、お家(うち)で掃除や洗濯の手伝いをすると言うのを愛と言います。
 つまり、自分が計画したものはしないで、相手が計画したものを行うと言うことです。つまり、自分の自己実現は後回しにして、人の自己実現のために、自分の時間やお金を使う、これが「友のために自分の命を捨てること」と言うことです。
 
また、人に殴られたり、唾(つば)を吐()きかけられたりしたらどうするでしょうか、怒るでしょうか。愛の人はこのような時にも、その人のために祈り、愛すると言うことです。
また、人からプライドを傷つけられるようなことがあったらどうするでしょうか、例えば「人から無視」されたりという場合です。そのようなとき怒るのでしょうか。 そう言うときにも相手を愛することが出来るでしょうか。
 人から理不尽な扱い、不当な扱いを受けたときにプライドが傷付くのでしょうか。クリスチャンは自分の主導権をイエス様に明け渡した者ですから、本来は、傷付くべきプライドが無くなっている存在なのですが、如(いか)何()でしょうか。
 
山室軍平は24歳の時、1896年1月に中尉に任じられましたが、なお心霊上の不十分さを覚えそれを克服しようと学びと祈りとを積み重ねた結果、その年の8月に聖潔に入ったと著書「私の青年時代」の中で述べています。その所を少し引用します。
 「時は1896年8月20日のことであった。わたくしはその時、三日間の暑中休暇をもらったので、それを機会に、ぜひとも確実な聖潔の恵に入りたいものと、神奈川県富岡の海浜に引きこもって、しきりに考えたり祈ったりしたあげく、それに関しての頭と心の用意も大概調(ととの)ったように思って、その朝は特に未明に起きて、海辺に腰をおろして静かに目を閉じ、今一度おごそかにわが一切の罪、および罪かと疑わしいことを捨て去り、以後はただ神がなれと仰せられるままになり、神がなせと仰せられるままをなすために、生きながらえることを誓いながら、わたくしと、わたくしに属する一切の物を神の祭壇におき、『火をもって答える神』(列王記T18:24)が来て、供え物を聖別してくださるのを待ち望んでいると、神ははたしてわたくしに来てくださった。そのみたまは下ってわたくしの心の汚れを潔め、すべて不純な、身勝手な思いを私のうちから除き、わたくしを『神の神殿』(コリントT3:16)としくださったのである
 ・・・わたくしの胸のうちには今『義の太陽』(マラキ3:20)であるキリストが輝くみ姿で臨み、またそのみ光で隅(すみ)々くまぐままでも、すっかり照らしてくださることとなったのである。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』(ヨハネ8:12)、『神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、・・・御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』(ヨハネT1:7)などという、神の約束はわたくしの上に応験されたのである。ハレルヤ。わたくしはその朝から、全く潔められた生活に入ったのである。」
 
このように聖潔とは100%自分を神に献げることです。私は99%自分を神に献げていますと言う人がいるでしょうか。しかし、その残りの1%がある場合には10%になり50%になりそして90%になってしまう訳です。ですから100%を献げたかどうかと言うことが問題となる訳です。(AAと同じ。)
 100%を献げた時に山室軍平のように「全く潔められた生活」に入ったのであると証しすることが出来ます。私は2008年6月26日に入ることが出来ました。。
 
山室軍平の当初の対応の中に次のような出来事がありました。「神保町を火元とする大火があったときに、火元は救世軍だという噂(うわさ)が広まったそうです。その時山室軍平は弁護士を立てたり、誤解を正そうとするのではなく世の批判を受け入れて新聞に謝罪文を載せたとのことです。つまり、人のために労すべきはずの救世軍がこの度は、大変なご迷惑をおかけしてしまいました。深くお詫びいたします。」
 
これはキリストが理不尽な扱いを受けたときに、天から火を呼ぶのではなく、返って「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ったことと同じ対応です。
 これは潔められた人にしか出来ない対応です。
 
しかし、彼の晩年には文部省からの「神社は宗教ではないから他の宗教家も拝むように」との通達が出たときには、潔めの人としての対応が出来ませんでした。
 その後の救世軍では創業初のような成長を見るに至っていません。
 イエス様の譬(たと)えに(マルコ4:26)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」とあります。
 つまり、神の国は自ずから成長しますと言うことです。ですから、成長の鍵は私たちクリスチャンが本物の神の国となるかどうかにかかっています。
それは、私たちが「全く潔められた生活」に入るかどうかと言うことです。