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「自分を捨てるとは」(140209aza)
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資料 聖潔への道

マルコによる福音書8:34-35、ヨハネによる福音書12:24-25
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 
 
先日ラジオを聞いていましたら、仏教家の話しが流されていましたが、彼が言うには「キリスト教は禁欲的な宗教です」と述べていました。なるほどキリスト教を外から見れば禁欲的と見ることが出来るかもしれません。しかし、仏教も禁欲的な面があると思いますが、概して宗教は禁欲的な所があるでしょう。
 しかし、キリスト教では禁欲的な宗教というのではなく、正しい生き方に帰る、と言うことであって、それが豊かな人生に繋がる、と言うことが教えられている訳です。
 
さて、皆さんは「自分を捨てるとは」と聞かれたら何と答えるでしょうか。
 
@第一に思い浮かべるものは「犠牲を払う」と言うことではないでしょうか。街頭給食の奉仕に参加したり、社会鍋募金に参加したり小隊の奉仕に参加すると言うことです。また献金をすると言うことも犠牲を払うと言うことが出来ます。
 また、献身するというのも「犠牲を払う」と言うことになるでしょう。自分がしていた仕事や生活を辞めて福音宣教の働きに加わると言うことです。また、文字通り命を捨てると言うこともあります。ヨハネ15:13に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とあります。
ご存じのように三浦綾子さんの小説の「塩狩峠」では主人公の長野信夫さんは後戻り仕始めた客車を止めるために自分の身体を犠牲にしました。これは実話であって実際の名前は長野政雄さんとのことです。
勿論、この御言を実践されたのはイエス・キリスト自身です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)。イエス様の愛は自分を十字架に付けるほどに大きなものでした。
 
Aさて、「自分を捨てるとは」との2番目の意味としては迫害を恐れずに神の義を行うと言うことです。「わたしの後(あと)に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)。
神の言葉を実際に行おうとすると付いてくるものが迫害です。マタイ5:11には「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」とあります。また、マタイ13:21には「自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」とあります。これは、御言葉を行うと、必ず迫害があると言うことを意味しています。何故でしょうか、それはこの世を支配しているものはサタンであるからです。勿論私たちはサタンの働きを滅ぼして神の国を打ち立てるための神の兵士である訳です。
 ですから、自分を捨てるとは、自分を愛することなく、迫害にも甘んじると言うことになります。
内部告発というのがありますが、最近では法律で守られるようになってきていますが、しかし、なお多くの場合解雇される恐れがあります。ですから、神の義を行うと言うことは職を失い、生活が脅かされるということをも受け入れなければ成らないと言うことです。これが「自分を捨てる」と言う意味になります。
 
B「自分を捨てるとは」との3番目の意味ですが、今日特にお伝えしたかったことが、この3番目の「自分を捨てるとは」と言うことになります。それは自分の性格を捨てると言うことです。ヨハネによる福音書12:24では「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」ならない、と言っています。
皆さんは自分の性格は私だけのものであって私はこれを愛している、と言うかもしれません。しかし、それらの性格はサタンによって植え付けられた誤った性格であって、本来のあなた自身の性格ではありません。
 人は皆自分の性格を捨てて、イエス・キリストの性格を身につけるよう勧められています。皆さんは自分の性格、個性をどのように診断しておられるでしょうか。
・一つには積極的か消極的か、などの性格があると思います。
・また意志が強いとか、弱いという性格もあるでしょう。
・或いは、一つ目に似ていますが、プラス思考か、マイナス思考かと言うのもあるでしょう。
・忍耐強いとか、弱いと言うのもあるでしょう。
 
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」とコリントU6:2にあります。今の時代、私たちはイエス・キリストを通して創造の初めであるアダムとエバの性質に帰ることが出来るようになっています。アダムとエバは神と共に歩み常に積極的な性質と愛に満ちた性質を持っていました。私たちはサタンによって植え付けられた誤った性質を脱ぎ捨て、イエス・キリストの性質を身につけるべきなのです。
 
御言を見て行きましょう。
マタイ8:34「わたしの後(あと)に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」。ここでは自分を捨てなさいと言っています。
ヨハネ12:24「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」。誤った自分の性質を愛するならば、それは自らを滅ぼすことになります。
 自分を愛してはいけません。
自分の個性を捨て、キリストの性質を身につけるべきです。自分の個性とはサタンによって植え付けられた罪であり、誤った性質です。これを捨てましょう。
 
ガラテヤ2:20「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とあります。ここでもハッキリと私という個性を捨ててキリストを着るべきですと言っています。
ローマ6:4「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
 ここではキリストの死の意味は、私たち自身の性質に死ぬこととしています。そして、キリストの復活は、私たちが新しい命に生きるため、つまり新しい性格の人になるためと言うことです。
ローマ6:8「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」ともあります。
 
ローマ6:10「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
 義のための道具として神に献げるためには、行いを改めるだけではなく性格そのものも新しい性格に生まれ変わる必要があります。私たちは神に対して生きている者ですから、神の性質に似た者と変えられていくのは当然のことです。
 
フィリピ1:21「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」これはパウロの証言です。
 私たちが生きるとは自分が生きるのではなく、キリストが生きるように、つまり私を通してキリストを現すと言うことです。ですから私自身の個性は必要としてはいません。
私たちはキリストの代理者であり、キリストを持ち運ぶ者です。
 私たちは自分自身を通してキリストを持ち運び、人々がイエス・キリストと出会うことが出来るようにしなければ成りません。
 
どうぞ自分に死んで、神に生きる、そのような決心の時を持たれますようお薦めいたします。
(サムエル記下6:13〜15) ダビデの信頼
(サムエル記下6:20)   ミカルの批判