ミカ書6:8
私たちは皆、イエス・キリストの故に、罪赦され、神と共に歩む者として、神の前に集う者とされました。では私たちはただ、神の救いに与ったことを喜び、その祝福の中に憩うだけで良いのでしょうか。勿論そうではありません。救われたことを喜ぶだけでは、その喜びを持続させることは難しいでしょう。信仰には次のステップがあるはずです。
ザアカイは(ルカ19:6)イエス・キリストの救いを受けた時、ただ喜んだだけではありませんでした。ザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8)、と言いました。ザアカイは今日(きよう)のテキストであるミカ書6:8を実行いたしました。即ち「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」、これを行うと宣言した訳です。
私たちも救いの喜びを、「主が求められていることを実行する者」へと変えられていきたいと思います。ザアカイはこれを嫌々宣言したのではありませんでした。彼は喜びのあまり、自分の物全部を人々にプレゼントしたいと思うほどだった訳です。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」、これが救われた者に与えられる第一の使命です。これを実行することによって、救いの喜びは、更に大きな喜びへと変えられていきます。しかし、私たちには、更なる使命が与えられていることを覚えたいと思います。
イザヤ書42:18 「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。42:20 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。42:21 主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。42:22 この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言う者はない。42:23 あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。」
これは神様が世の窮状を御覧になり、彼らを助け出す者は居ないかと訴えているものです。世の救いのために神様はイエス・キリストを贖い主として世に送ってくださいました。そしてそれは、その救いを得た者を、世の救助者とするためでした。ここに私たちクリスチャンの第二の使命があります。
クリスチャン自らが神の御国の原則に従って生きるだけではなく、まだ神を知らない人々に神を知りたいという渇望と、人生を変えたいという願いを起こさせ、彼らもまた、神の御国の原則に従って生きる者へと、導く役割が与えられています。私たちは本当に、人々の窮地に無関心ではいられない、キリストの弟子でしょうか。
私たちはキリストの思いに立っているでしょうか。私たちは人々に影響を及ぼす、活動的なクリスチャンとしての位置に着いているでしょうか。私たち一人一人は神の御手にある武器として用いられようとしています。
ここで一つ、これまで言ってきたことを訂正いたします。それは小隊の目的は、人々を小隊に連れてくることではないと言うことです。会館が人で一杯になることは結果として起こることであって、目的ではありませんでした。先程から述べていますように、人々が地上の原則、つまり錯覚と欺きから解放され上よりの原則によって生きる者へと導くことが私たちの使命です。
人々はお金はすべての解決策、幸せの基盤、成功の源と思って、お金を得ることに人生の精力を浪費しています。そのために起こる弊害のために、あらゆる禍(わざわい)に見舞われています。
神様は、それらの社会の解放者として、また、救助者として私たちを導かれました。神様は私たちが「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者となるように、そして、人々に神の国と真理の原則を現していくために、私たちを救ってくださいました。
私たちは心配したり恐れたりすることによって、多くの時間を浪費してきました。私たちは人生の残りの時間を、神の目にかなう人となるために生きるのでしょうか。人がどう思うかではなく、神がどう思われるかが重要です。決断をする時には、この事を考慮に入れなければなりません。
神様はすべてのクリスチャンが神の側に立ち、自分の快適な生活に満足するのではなく、神の御心が天で行われるように地でも行われるために、立ち上がることを願っています。すべての人が、特に皆さんが活動しておられる中の人々が神に出会うことができるように執り成しの祈りを捧げて参りましょう。
《今日の聖書》
ミカ書6:8 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
<要約>
ローマ「5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。私たちは皆、イエス・キリストの故に、罪赦され、神と共に歩む者として、神の前に集う者とされました。では私たちはただ、神の救いに与ったことを喜び、その祝福の中に憩うだけで良いのでしょうか。勿論そうではありません。救われたことを喜ぶだけでは、その喜びを持続させることはできません。ザアカイは(ルカ19:6)イエス・キリストの救いを受けた時、ただ喜んだだけではありませんでした。彼は言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8)、と言いました。ザアカイは今日(きよう)のテキストであるミカ書6:8を実行いたしました。私たちも救いの喜びを、「主が求められていることを実行する者」へと変えられていきたいと思います。ザアカイはこれを嫌々宣言したのではなく喜びのあまり、自分の物全部を人々にプレゼントしたいと思うほどでした。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(6:8)、これが救われた者に与えられる第一の使命です。
第二、イザヤ書「42:22 この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく、奪われても、返せと言う者はない」。これは神様が世の窮状を御覧になり、彼らを助け出す者は居ないかと訴えているものです。世の救いのために神様はイエス・キリストを贖い主として世に送ってくださいました。そしてそれは、その救いを得た者を世の救助者とするためでした。クリスチャン自らが神の御国の原則に従って生きるだけではなく、まだ神を知らない人々に神を知りたいという渇望と、人生を変えたいという願いを起こさせ、彼らもまた、神の御国の原則に従って生きる者へと、導く役割が与えられています。私たちは本当に、人々の窮地に無関心ではいられない、キリストの弟子でしょうか。ここでこれまで言ってきたことを訂正いたします。会館が人で一杯になるように、と言うことを祈りの課題としていましたが、これは主な目的ではないので取り下げます。これは結果として起こることであって、目的ではありませんでした。人々が地上の原則、つまり錯覚と欺きから解放され上よりの原則によって生きる者へと導くことが私たちの使命です。そのために私たちを救ってくださいました。私たちは心配したり恐れたりすることによって、多くの時間を浪費してきました。人生の残りの時間を、神の目にかなう人となるために生きるのでしょうか。人がどう思うかではなく、神がどう思われるかが重要です。すべての人が、特に皆さんが活動しておられる中の人々が神に出会うことができるように執り成しの祈りを捧げて参りましょう。