マルコによる福音書16:15〜18
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
今日は教会の任務についてもう一度確認いたします。
第一には、教会はイエス様が建て上げられたものであり、教会の主はイエス・キリストです。エペソ5:23「キリストが教会の頭であり」と有る通りです。
ではイエス様は、何のために教会を建て上げたのでしょうか。それはマルコ16:15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」との大宣教命令を実現するためです。
私たちは共すると教会は教会のためにあると考えていることがあります。そのために現状維持や会員を増やすことのみを目標としていることがあります。大宣教命令とは伝道をすることと考えてしまっています。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」との命令は、教会が教会のためにあるのではなく、大宣教命令を実現するために教会があると言う事を示しています。つまり、教会は信徒を訓練し、世に派遣する所であると言うことです。教会は世界を福音化するための学校であり、戦闘員を訓練する所です。決して気の合う者同士が集まって慰め合うというような所ではありません。勿論そのような面もありますが、それはメインの目的ではないと言う事です。
第二に神様は教会に関心を持っておられるのではなく、国に対して関心を持っておられると言う事です。出エジプト記4:22に「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」とあります。神様は個人個人に関心を持っておられると同時に国に対しても関心を持っておられます。 神様は「イスラエルはわたしの子」と呼んでいます。国というものを単に抽象的な概念として捉えているのではなく、人格的に捉えています。
人は皆国という単位で統治されていますから国が救われているのでなければ個人の救いは完成いたしません。勿論最終的には全世界が救われる必要があります。
神様はイスラエルを「わたしの子」と呼んでいます。イスラエルを「わたしの子」と呼ばれる神様は、日本に対しても「わたしの子」と呼んでおられます。イスラエルは他の国の先駆けとして愛されていますが、勿論その他の国をも神様は愛されています。それ故にイエス様はお弟子さん達に「大宣教命令」を告げました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
ですから私たち救世軍兵士は、小隊会館を出てからが任務に入ると言うことです。つまり、家庭や職場、地域社会において、神の国の原則に従って生き、活動すると言う事です。
イエス様の心は、神の国の原則で国々が支配されることを願っています。これがすべての信徒、教会の使命です。神の国は将来私たちが行く所と考えてはなりません。イエス様は神の国はすでに来ているとおっしゃいました。
マタイ12:28「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言っています。イエス様はこの地上に来られる時神の国を天に置いてこられたのではなく、この地上に持ってこられました。
ですから私たちは生活のあらゆる場面で神の国を体験しているべきものです。もし、神なき文化に苦しむ国があるなら、それはクリスチャンが神の国の原則でその文化を治めていないからです。ここにクリスチャンの使命があります。
教会には、この世の原則とは異なる優れた原則によって活動する使命があります。私たちが毎日を神の視点で過ごせるよう、キリストに似た者、キリストの原則で生きる者になるよう訓練する場が教会です。そのために教会があります。だから日曜日には教会に行きます。説教も学びも礼拝もそのためです。
教会は、社会に影響を及ぼす人々を訓練する場とならなければなりません。私たちは神の国のために召されていることを自覚する時、すべての恐れが消えていきます。自らの使命が明確になる時に人は真っ直ぐに進むことが出来るようになります。
第三に、教会の任務が明確になると、信徒一人一人にもそれぞれの任務があることが分かってきます。それがアブラハムに与えられた約束の地です。私たちはそれぞれ異境の地で迷い、苦しみ、傷ついていました。しかし神様は一方的にそこから贖いだし、神の祝福の地に導いてくださっています。しかし、その祝福の道は更に明確にならなければなりません。
私たちが進むべき約束の地が明らかになり約束の地を治めていく時に、その力が集められて、国全体を変革することに繋がっていきます。
日本は憲法や法律は福音の光の影響下にありますが、人がこれを守ろうという姿勢が不足しています。地位ある人は私腹を肥やそうとし、社会ルールを守らない人がいます。一人一人の命が軽視されているために、うつや精神疾患が増えています。また家庭や子供の社会も傷ついています。
ある教会では「健全な関係の中に溢れる祝福」と言うテーマで学びがなされていますが、健全な社会を築くのは教会の使命です。教会には、この世の原則とは異なる優れた原則を持っています。この原則を世に発進しなければなりません。
そのために私たちはまず、自らの日常生活の中にキリストの支配を確立しなければなりません。そして約束の地を発見し、治める時に、キリストのために国を変えることが出来ます。
神様はこの世界を聖いものとして創造され、私たちの心も聖いものとして造られました。私たちはキリストのご支配の中に憩う時にのみ神様の祝福に与ることが出来ます。
今週も主に全てを委ねて前進してまいりましょう。
<要約>
教会の任務の第@は、教会はイエス様が建て上げられたものであり、教会の主はイエス・キリストで有るということです(エペソ5:23キリストが教会の頭)。その目的は世界宣教のためであり(マルコ16:15)、すべての国がキリストの原則で生きるようになるためでした。私たちは共すると教会は教会のためにあると考えその維持成長にのみ囚われがちですが、そうではなく教会は信徒を訓練し、世に派遣する所であると言うことです。教会は世界を福音化するための学校であり、兵士を訓練する所でなければなりません。第Aに神様は出エジプト記4:22に「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」とあるように、神様は国を「わたしの子」と呼んでいます。神様は国を単位として救うことを願っています。救いの完成は個人が救われ国が救われるのでなければ完成いたしません。勿論最終的には世界全体が救われる必要があります。イスラエルを「わたしの子」と呼ばれる神様は日本をも「わたしの子」と呼んでおられます。イエス様の心は、神の国の原則で国々が支配されることです。これがすべての信徒、教会の使命です。神の国は将来私たちが行く所と考えてはなりません。イエス様は神の国はすでに来ているとおっしゃいました。
マタイ12:28「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエス様はこの地上に来られる時、神の国を天に置いてこられたのではなく、この地上に持ってこられました。ですから私たちは生活のあらゆる場面で神の国を体験しているべきものです。もし、神なき文化に苦しむのであれば、それはクリスチャンが神の国の原則でその文化を治めていないからです。ここにクリスチャンの使命があります。教会には、この世の原則とは異なる優れた原則によって活動する特権が与えられています。これを学ぶ所が教会です。第Bに、教会の任務が明確になると、信徒一人一人にもそれぞれの任務があることが分かってきます。それがアブラハムにも与えられた約束の地です。私たちは神様から与えられる約束の地を発見し治めていくべき者です。その総和が国を変え国を救うことになります。私たちは自らの使命のために、キリストのご支配の中に憩い神様の祝福と力とを受け取ってまいりましょう。