ヨハネによる福音書 13:34〜35
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
約束の地について学んでいますが、職業としては、保育士や看護師という職業を持っておられる方、また主婦業という方もおられます。職業を超えて約束の地を持っておられる方もおられるでしょう。
その約束の地を統治する前に、必要なことは、まず、私たち自身が神の国に支配されなければならないと言うことです。つまり、神の国意識を持つと言うことです。私たちが職場や家庭、社会活動、社会そのものに神の国をもたらすためには、個人レベルでの変革がまず、必要です。
第一には神の性質を身につけると言うことです。
次にキリストの性質を身につける。そして、それは「神様依存症になる」と言うことでもあります。
第二に、教会や小隊を奉仕の中心にしないと言うことです。小隊は神の国の原則を学ぶ学校であって目的ではありません。
小隊の行事が奉仕の中心になると、小隊の内部で争うことになります。約束の地は国を変えることであり、それは職場や家庭であり小隊の外で、何が起こっているのかと言うことに関心を持っていなければなりません。
小隊の外では、助けを必要としている人、不正、ポルノ、脅迫、犯罪、貧困、ビジネス、芸術、政治、環境、アルコール、様々な問題が山積しています。
小隊は新しい人を招くという点では関心を払わなければなりませんが、その他のことについては中心的な問題ではありません。
小隊が目的を失い、小隊を活動の中心にしてしまう時、明るすぎる部屋や、塩気の効き過ぎた料理のように、互いを傷つけあってしまいます。
私たちは教会の塩ではなく、地の塩と言われています。また、教会の光ではなく、世の光と言われています。(マタイ5:13-14)
私たちが目標を見失うと内部で争うことになってしまうものです。
第三に小隊は私たち、即ち小隊長や、兵士の者ではないと言うことです。厳に注意を払わなければならないことは所属意識です。私たちは小隊に所属しているのではなく、イエス・キリストに所属する者でなければなりません。
「キリストが教会の頭であり」(エペソ5:23)
と言われているように、教会の主はイエス・キリストですから、教会に固執べきではありません。神の国と王であるキリストだけに固執すべきです。
教会はキリストの花嫁と黙示録(19:7)で述べられています。小隊はキリストのものですから、私たちが所有してはなりません。私たちは小隊に固執するのではなくキリストに固執すべき者です。
イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)と言っています。イエス様は私たちが考えるべきものは神の国についてだけだと言っています。神の国以上に私たちの注意を引きつけるものがあってはなりません。
四番目に、小隊は道具であって目的ではないと言うことです。どんな大きな教会であっても、文化を変えることも、社会に語ることも、社会悪を絶つこともしないなら、全く役に立ちません。これは小さな少人数の時から実行していなければ出来ないことです。小隊の文化は大勢になってから変えようとするのには大きなエネルギーが必要になりますし、また分裂を引き起こすことがあります。
申命記6:23には神様はイスラエル人を約束の地に入れさせるという目的を持ってエジプトから導き出したことが書かれています。「6:23我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。」とあります。
私たちはそれぞれに、この地上で征服すべき約束の地があります。改革者としての仕事を割りあてられています。だからこそ、私たちは救いを受けました。
神様は、以前は神なき者たちが支配していた地を、正しく管理してくれる手足を必要としています。私たちは世界を変えるために存在している一人一人です。
私たち一人一人はからし種として世に植え付けられるべき者です。この繁殖力の強い植物をイエス様は神の国の譬えに使いましたが、同じように神の国もやがて広がり、地を覆っていきます。
マタイ 「13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」」とある通りです。
五番目に、福音は部分的に受け取ってはいけないと言うことです。社会変革や社会福祉を追い求めてはいるが個人の救いが語られていなかったり、逆に個人の救いと祝福だけが語られて、社会変革については関心がないと言うことがあっては成りません。
福音は全体を受け取る時に福音なのであって、一部分だけでは、福音とはなっていません。
六番目に、神の国意識を持つためには、世の中の思考方法を否定し、より優れた原則にもとづいて生きると言うことです。
クリスチャンが属している神の国は、より優れています。私たちが従って生きている原則は、より優れています。愛は憎しみよりも優れています。憐れみは復讐よりも優れています。
闇の国の原則では、この地上を正しく支配し、従わせることは出来ません。
この世を改善するためには、より優れた立場と、より優れた原則が必要です。その原則とは、愛、平和、公正、憐れみ、善意、優しさ、一致、同情、そして聖さなどです。
これらは世の中を動かしているもの、すなわち支配、権力、憎悪、操作、分派、脅迫、報復、貪欲、わがままなどよりも優れています。
ペトロの手紙T2:12 「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」
この御言を実現するために私たちは召し出されています。私たちの聖さと義しさこそが、神が存在しておられることを証明するものです。
<要約>
約束の地を統治する前に、必要なことは、まず、私たち自身が神の国に支配されなければならないと言うことです。第一に、教会や小隊を奉仕の中心にしないと言うことです。小隊は神の国の原則を学ぶ学校であって目的ではありません。小隊の行事が奉仕の中心になると、小隊の内部で争うことになります。小隊は新しい人を招くという点では関心を払わなければなりませんが、小隊の外での問題、助けを必要としている人、不正、ポルノ、脅迫、犯罪、貧困、ビジネス、芸術、政治、環境、アルコール、様々な問題に関心を持っていなければなりません。第二に小隊は私たち、即ち小隊長や、兵士のものではないと言うことです。所属意識を持たないことです。私たちは小隊に所属しているのではなく、イエス・キリストに所属する者でなければなりません。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)と言っています。神の国以上に私たちの注意を引きつけるものがあってはなりません。三番目に、教会は大きくなったとしても、文化を変えることも、社会に語ることも、社会悪を絶つこともしないなら、全く役に立たないと言う事です。これは小さな少人数の時から実行していなければなりません。大勢になってからその文化を変えるには大きなエネルギーが必要になってしまいます。
「我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。」(申命記6:23)。私たちはそれぞれに、この地上で征服すべき約束の地があります。改革者としての仕事を割りあてられています。だからこそ、私たちは救いを受けました。神様は、以前は神なき者たちが支配していた地を、正しく管理してくれる手足を必要としています。私たちは世界を変えるために存在している一人一人です。四番目に、世の中の思考方法を否定し、より優れた神の国の原則にもとづいて生きると言うことです。愛は憎しみよりも優れています。憐れみは復讐よりも優れています。闇の国の原則では、この地上を正しく支配し、従わせることは出来ません。「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」(ペトロの手紙T2:12 )。この御言を実現するために私たちは召し出されています。私たちの聖さと義しさこそが、神が存在しておられることを証明するものです。