ヨハネの手紙T 4:4
4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
先日話しの中で電車に乗っていたところ、一つ前の電車が人身事故に遭ったため40分止まってしまい、遅れてしまったという人がいました。
この電車での人身事故の内容のほとんどが飛び込み自殺です。社会が抱えている問題、つまり自殺、いじめ、家庭崩壊、不正、と言うような事が日々伝えられています。
国とそこに住む人々が私たちの怠慢の結果として苦しんでいるとしたら、私たちは神の御前に言い訳する事はできません。
このような世の悲惨は私たちの責任です。
教会は社会に対して、神の立場を積極的に表明し神の原則を世に打ち立てる役割を担っています。
法律を守るという点についてもクリスチャンはその役割を担っています。
法律とは人々を平等にするため、弱い人を助け、或いは守るために法律は作られています。税金は所得再配分のためであり、それは弱い人々への福祉事業です。その他の経済上の法律や安全のための法律も弱い人々を守るために作られています。
ですから。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19)との御言葉を使命とするクリスチャンは積極的に法律を守る必要があります。
クリスチャンでない多くの人々は自分の事しか考えないので、何とか法律から逃れて安易な道を選びます。クリスチャンはその様な人々と同じになってはなりません。
道路の速度制限もこれは法律です。東京の環状七号線は良く整備された道路ですが、制限速度は40q/hです(現在は50q/h)。これは環七の沿線で光化学スモックなどが発生したり、騒音被害を受けている人々を守るために設けられている法律です。
環七以外の道路でも、理由があって、公共の福祉のために設けられているものです。「法律というものはこのように守るのですよ」、と、まずクリスチャンがお手本を示さなければなりません。
私たちはしばしば、自分が小さな取るに足りない者ですと思っています。しかし、神様は私たちを神のメッセンジャーとみなしてくださっています。
国とそこに住む人々がどのような方向に進んでいくかは、このメッセンジャーたちの行動と態度にかかっています。
今日クリスチャンは大臣や議員のような高い地位の人たちの前に萎縮しています。しかし、実際には私たちの中におられる神の方が、それらのどんな人よりも遙かに偉大であると言うことを忘れています。
この世は、私たちが「地上において神を代表する者として行動」しはじめるまでは、何も起こりません。
私たちが救われた目的を正しく理解するのでなければ世が救われる事はないのです。
さて「地上において神を代表する者として行動する」ためには、どうすれば良いのでしょうか。
第一に自分は何者であるかと言う事を、ハッキリと自覚すると言う事です
パウロはテモテへの手紙Tの中で「罪人の中で最たる者です」(1:15)と言っていますが、しかし1:18で「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、」と言っています。
つまり、パウロは弱さの中にありましたが、イエス・キリストによって完全に、強い者と変えられました。そして、彼の弟子であるテモテにも、その事を勧めました。「雄々しく戦いなさい」と。
私たちもパウロと同じ信仰に立たなければなりません。私たちも弱さと迷いの中にありましたが、今はそうではありません。勿論イエス・キリストに対しては、謙遜であり、忠実な者でなければなりませんが、一方世の人々に対しては「神を代表する者として」「雄々しく戦いなさい」と勧められています。
そのように行動しないのであれば、イエス・キリストの十字架は無駄であったことになります。
もし、その様な態度が取れないとするならば、それは、救世軍教理第9条に「われらは、救いの状態の持続は、キリストに対する信仰と服従との持続によることを信ず。」とありますが、この「キリストに対する信仰と服従との持続」が十分でないと言うことです。
更に、これは頭で理解していても、実行することはできません。それには練習が必要です。頭で理解したことを身体に覚えさせなければなりません。
イエス・キリストによって私たちは強められていると言う事です。その様な態度を誰の前においても現す練習をする必要があります。
ヨハネは言いました。「4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(ヨハネT4:4)
神に属している者には、イエス・キリストの強さが現されます。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」と言っています。
第二には、この世と妥協しないと言うことです。
ローマ12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」とあり、またコリントの信徒への手紙T6:14「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛(くびき)につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」とあります。
神を代表するためには、神の性質を帯びていなければ神を代表することはできません。
私たちはこの世の原則に倣う必要は、全くありません。世に調子を合わせる必要はないのです。
よく「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言う御言は素晴らしいですね、しかし、実行するのは難しいですね、と言うことを聞くことがあります。
しかし、この発言はこの世と妥協しているのであって神の言葉を無にしていることになります。
勿論この御言葉を実践するためには次の2つの事をしなければなりません。一つには赦すという事です。自分に傷を負わせた人を赦すという事です。
これがなければ当然「敵を愛」すると言う事は出来ません。
私たちはイエス・キリストの故に赦す事が出来る者となっています。
二つ目は謝るという事です。人を傷つけてしまい、恨みを買ってしまっている時に、そのままの状態では、「敵を愛し」また「祈」ると言う事は出来ません。
イエス様の薦めは、マタイ5:23にあります。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。」
私たちは赦す事と、謝る事によって、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言う御言を実行しています、と言う事が出来ます。
またマタイ5:27には「姦淫してはならない」とありますが、この点についても世の原則は大変低い状態にあります。これらについてもクリスチャンは積極的に戦いを勧めなければなりません。救世軍の創業時代に吉原遊郭に繰り出し戦いましたが、この戦いはまだ終わっては居ません。
第二のこの世と妥協しないと言うことは、神様の側に完全に立つという事です。
私たちはこの世に調子を合わせる必要は全くありません。
私たちは、キリストによって強められ、地上において神を代表する者とされています。
また、その使命を果たすために神様の側に完全に立っているという事が求められていると言うことです。
この世は、私たちが「地上において神を代表する者として行動」しはじめるまでは、何も起こりません。
私たちが救われた目的を正しく理解するのでなければ世が救われる事はないのです。
<要約>
「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(ヨハネT4:4)。電車での人身事故の内容のほとんどが飛び込み自殺です。社会が抱えている問題である自殺、いじめ、家庭崩壊、不正と言うような事が日々伝えられています。イエス様はその救いとして私たちの世に来てくださいました。しかし、私たちの怠慢の結果として人々が苦しんでいるとしたら、神の御前に言い訳をする事はできません。教会は社会に対して、神の立場を積極的に表明し神の原則を世に打ち立てる役割を担っています。例えば法律を守るという点について考えますと法律とは人々を平等にするため、弱い人を助け守るために作られています。税金は所得再配分のためであり、それは弱い人々への福祉事業です。その他の経済上の法律や安全のための法律も弱い人々を守るために作られています。ですから。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19)との御言葉を頂いているクリスチャンは積極的に法律を守る必要があります。多くの人々は自分の事しか考えないため、何とか法律から逃れて安易な道を選ぼうとします。クリスチャンはその様な人々と同じであってはなりません。道路の速度制限も同じです。沿線住民を守るため、また歩行者などを守るためです。まずクリスチャンが手本を示さなければなりません。今日クリスチャンは大臣や議員のような高い地位の人たちの前に萎縮しています。しかし、実際には私たちの中におられる神の方が、それらのどんな人よりも遙かに偉大であると言うことを忘れています。
正しい態度をとるための第一は自分は何者であるかと言う事を自覚する事です。パウロがテモテに述べているようにキリストによって「神を代表する者として」「雄々しく戦」(テモテT1:18)う者とされていると言う事です。救世軍教理第9条「キリストに対する信仰と服従との持続」によってその姿勢を発展させる事ができます。第二には、この世と妥協しないと言うことです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(ローマ12:2)。神を代表するためには、神の性質を帯びている必要があります。私たちは世に調子を合わせる必要はないのです。例えば「敵を愛しなさい。」(マタイ5:44)と言う御言を実践するためには2つの事が必要です。一つは赦すという事。自分に傷を負わせた人を赦すという事。二つ目は謝るという事。マタイ5:23「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら・・・まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。私たちは赦す事と、謝る事によって「敵を愛しなさい」を実行することが出来ます。この世と妥協しないと言うことは、神様の側に完全に立つという事です。この世は、私たちが「地上において神を代表する者として行動」しはじめるまでは、何も起こりません。私たちが救われた目的を正しく理解するのでなければ世が救われる事はないのです。