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-神の国の原則を打ち立てる- 前へ / 後へ -地上において神を代表する者として行動する-
「悔改め」(120226ku)
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コリントの信徒への手紙U6:14
6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
 
 
多くの人の問題は、この世の原則を完全には否定していない事から起こります。世の中と部分的な友好関係を結び、闇と光を混ぜ合わせようとし、闇の国の原則を使って自分たちの規則を作っています。
 
秘密、怒り、不誠実など、様々な悪が規則となりました。この世の原則がその人を支配しているからです。口先ではキリストの者だと言いますが、実際の行いではキリストを否定しています。ですから争いや、分裂、空しさに襲われます。
 
 神様の働きにたずさわっていると信じていますが、実は劣った原則にのっとって歩んでいるので、実を結ばせる事が出来ません。
神の子供にとって、暗闇(くらやみ)を歩く人々から学ぶべきものはありません。もちろん、真似する必要などないのです。世の友となる事は神の敵となる事です。中道はありません。
ヤコブの手紙4:4「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」
とある通りです。
 
イエス様は繰り返しパリサイ派の人々を叱責しましたが、それは神の言葉を人々に教えはするが、自分はこの世の原則に従って生きていたためです。
 パリサイ派の人々の誤りは、今の私たちにも言える事です。救世軍も初めの頃は神の国の原則に従ってすべてが進められていましたが、100年の歴史を刻むうちに救世軍を維持成長させるために、この世の原則に従って物事が進められているのではないかなと感じることがあります。
組織や団体、教会の維持管理はクリスチャンの目的ではありません。クリスチャンの使命はどこまでも「神の国と神の義」を求めると言うことです。マタイ6:33に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあるように、そうするならば、私たちに必要なものは神様が与えてくださいます。
私たちは自分の使命を果たすならば必要な物は神様が与えてくださいますので、自分自身のことは考える必要はありません。私たち自身のことは神様が心配してくださいます。
 
私たちの使命は「神の国と神の義」を求め、また、そのような神の国の原則によって人々が生きるようにと、人々を教え、案内すると言うことです。
 
世を救うとは、困っている人にパンをあげる事ではありません。人々が神の国の原則に従って生きるように教えることが世を救うことになります。それにはまず、私たち自身がまず、神の国の原則に従って生きると言うことが必要です。その事が実現するならば世を救うことの半分は完成したことになります。
この世を救うとは私たち一人一人が神の国意識を持った人になる事です。私たち一人一人が神の国の性質を持った者に変えられる時にこの世が救われます。
 
ですから、世を救うとは、自分が大事にしている固有の性質、私はこういう性格ですというような、固有の性質、これを捨てて、キリストの性格に変化する事、これが世を救うという事です。
 今までの自分を捨てて、キリストを着るのでなければ、この世が救われる事はありません。パンは対処療法であって、病気を治した訳ではありません。病気を治すには、その性質が変化しなければなりません。
 
悔改めというのは、悪魔が植え付けた嘘によって私たちはカブト虫のような殻に閉じこめられています。この悪魔の殻を破る事が悔改めです。
 元々神様は私たち人間に100の祝福をくださっているのですが、カブト虫の殻のようなものを着ているものだから1/100のたったの1しか受け取っていません。私たちが後生大事にしているものを私たちは脱ぎ捨てる必要があります。
 
悔改めとは、自分を変える事です。
悔改めとは、心と信念体系を必要に応じて何度でも変えると言う事です。それは私たちが神の国意識を持てるようになるためのプロセスでもあります。
古いものを拒絶し、新しいものを取り入れると言うことです。より優れた神の国の恩恵、保護、導き、健康、繁栄、目的などを受け取り直すと言うことです。
キリストの性質を身につけるために身を捧げる時、私たちは、それぞれの使命を実現することが出来ます。
 
悔改めによって私たちは、「勝利者イエス」の性質を自分のものとする事が出来ます。成長、勝利は悔改めによって実現いたします。
神の国意識を持った、あるいは地上における神の代理人としての最大の性質は愛です。
 
 皆さんはすべての人を愛しているでしょうか。イエス様が「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言っているように、例外なくすべての人を愛していると言える時に初めて愛の人ということが出来ます。
 愛があれば、人生の問題の対処方法が変わります。感情を害しても、やり返すのではなく相手を赦せるようになり、イエス様が成される対応を自分を通して行うことが出来るようになります。
 
すべての人は救いを必要としている者です。ですからよくよく考えてみれば愛せない人など無いはずです。
 クリスチャンという言葉は「小キリスト」と言う意味という事ですが、ですから、イエス様の性質を身に帯びている人だけが自分の事をクリスチャンと呼ぶ権利があります。
 
人を愛しましょう。相手が誰であろうと、何をする人であろうと関係ありません。欠点があっても愛しましょう。無条件で愛しましょう。神の愛は人を引きつけるのですが、私たちの態度が人を遠ざけてしまう事があります。
 間違っていても愛しましょう。付き合いたくない人であっても愛しましょう。人々は愛を求めて教会に来ます。ですから、その期待に応えるのが私たちの使命です。
 
私たちは神の国意識を持った、あるいは地上における神の代理人として、「愛」の人と変えられてまいりましょう。
 
コリントU6:17に「だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。」とありますが、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、その所属が違うと言うことです。ノンクリスチャンはこの世の流れに従って生きていますが、クリスチャンはキリストの者となってキリストの原則によって生きています。
皆さんはこの世の流れに調子を合わせて生きているのでしょうか、それとも神の国の者として神の国の原則によって生きているのでしょうか。もし、この世の流れに調子を合わせて生きているのであるのならば、その人はキリストのものではありません。そしてこの世が救われることもないでしょう。
私たちが求められているものは、キリストの者として自分を100%神に献げることであり、100%神にお従いすると言うことです。
コリントU7:1「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 多くの人の問題は、この世の原則を完全には否定していない事から起こります。世の中と部分的な友好関係を結び、闇と光を混ぜ合わせようとし、闇の国の原則を使って自分たちの規則を作っています。秘密、怒り、不誠実など、様々な悪が規則となっています。この世の原則がその人を支配しているからです。自分はキリストの者だと言っても、行いではキリストを否定しています。ですから争いや、分裂、空しさに襲われます。神様の働きにたずさわっていると信じていますが、実は劣った原則にのっとって歩んでいるので、実を結ばせる事が出来ません。世の友となる事は神の敵となる事です。中道はありません。「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(ヤコブ4:4)とある通りです。
私たちの使命は「神の国と神の義」を求め、また、そのような神の国の原則によって人々が生きるようにと、人々を教え、案内すると言うことです。世を救うとは、困っている人にパンをあげる事ではありません。人々が神の国の原則に従って生きるように教えることが世を救うことになります。それにはまず、私たち自身がまず、神の国の原則に従って生きると言うことが必要です。その事が実現するならば世を救うことの半分は完成したことになります。この世を救うとは私たち一人一人が神の国意識を持った人になる事です。私たち一人一人が神の国の性質を持った者に変えられる時にこの世が救われます。ですから、世を救うとは、自分が大事にしている固有の性質を捨てて、キリストの性格に変化する事、これが世を救うという事です。今までの自分を捨てて、キリストを着るのでなければ、この世が救われる事はありません。パンは対処療法であって、病気を治した訳ではありません。病気を治すには、その性質が変化しなければなりません。悔改めというのは、悪魔が植え付けた嘘によって私たちはカブト虫のような殻に閉じこめられています。この悪魔の殻を破る事が悔改めです。
 
悔改めとは、心と信念体系を必要に応じて何度でも変えると言う事です。それは私たちが神の国意識を持てるようになるためのプロセスでもあります。古いものを拒絶し、新しいものを取り入れると言うことです。より優れた神の国の恩恵、保護、導き、健康、繁栄、目的などを受け取り直すと言うことです。キリストの性質を身につけるために身を捧げる時、私たちは、それぞれの使命を実現することが出来ます。「『だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる」(コリントU6:17)。クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、その所属が違うと言うことです。ノンクリスチャンはこの世の流れに従って生きていますが、クリスチャンはキリストの者となってキリストの原則によって生きています。この世の流れに調子を合わせて生きているのであるのならば、その人はキリストのものではありません。そしてこの世が救われることもないのです。