ルカによる福音書 8:49〜56
8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 8:50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 8:51 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」 8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。8:55 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。8:56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
只今は「神と一つになりましょう」とのテーマで学んでいますが、それはとりもなおさず、世の救助者、解放者であることを意味しています。
今日はその、世の解放者はどのような性質を持っているべきかについての3つについて学んでいきます。
一つには、もう心配はしない、と言うことです。ペトロの手紙T5:7に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあります。私たちはもう心配をするのは止めましょう。私たちのことは「神が心にかけてくださっている」とペトロは言っています。
何か心配なことがあるでしょうか、家族のこと、将来のことでしょうか、国が不安定なことでしょうか、ペトロは「何もかも神にお任せしなさい。」と言っています。私たちが成すべきことは心配ではなく、何が御心であるかを伺い知ると言う事です。神と一つになって神の思いを実行して行くこと、これが私たちが成すべき働きです。
私たちが心配をするとき、それは神様は今も天の御座に就かれ、この世界を統治されていると言うことを忘れているからに他なりません。神様は今でも、私たちが紅海の前に立つならば、神様はその紅海の水を真っ二つに分け、その間を歩かせてくださるお方です。
この方は神であり、神には不可能なことはありません。絶対的な揺るがない神への信仰によってのみ、世が救われ解放され、私たち個人もその祝福に与ることが出来ます。長い間私たちの内側に巣くっていた恐れの霊に打ち勝つようにと、神様は期待しておられます。
二つ目には、「神の名に誉れを与える」と言うことです。私たちはともすると、クリスチャンは神の名を汚すようなことはしてはいけないとか、クリスチャンに相応しい行動を取らなければいけない、と考えています。これはクリスチャンであることの消極的な見方です。
積極的に見ていくならば、それは、神様はこのように今も生きて働いておられます、と主の業を人々の前に現すことを目標とすると言うことです。それは、救助者、解放者としての使命を積極的に進めていくと言うことです。
人々は悪魔のだましごとの虜となり、その尊い人生が破壊されています。今日のテキストであります、会堂長ヤイロの娘をイエス様は生き返らせました。
ルカ8:52に「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。」とあります。イエス様は人々の涙を御覧になり、その悲しみからの救い、解放を人々にもたらしました。イエス様は「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」と人々を励まされました。
イエス様は今も泣き悲しんでいる人々に、私たちを通して、救いと解放をもたらそうとしておられます。
生き返った娘を見て「両親は非常に驚いた。」と記されています。人々はこの出来事を見て、神様は確かに生きて働いておられると確信したに違い有りません。
神様は今も、私たちが「神の名に誉れを与える」そのような働きをするようにと願っておられます。クリスチャンは家庭においても社会においても積極的に「神の名に誉れを与える」そのような働きを目標としていくならば、決してサタンの誘惑や罪に陥ることはありません。
攻撃は最大の防衛である、と言われている通り、クリスチャンとしての使命を積極的に進めていくときに、神様の守りと祝福に与ることが出来ます。
ヨブ記1:8に「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』」とあります。神様はサタンに、ヨブほどりっぱなクリスチャンは居ないだろうと自慢をしています。私たちもどうか、神様の自慢となるような一人一人で有りでありたいと思います。
第三番目は、「解放者として召されていることを悟るなら」と言うことです。私たちは皆幸福な人生、生涯を送れるようにと願っています。しかし、自分のことだけを考えているとしたら、その人は幸福を手にすることはできません。何故なら、幸福とは、自分の働きによって人が幸福になるときに、自分もその祝福に与ることが出来るからです。
ですから、人は自分のために存在しているのではなく、他者のために存在していると考える方が分かりやすい幸福論ということが出来ます。
特にクリスチャンは、神の真理、神の国の原則を学んでいる一人一人ですから、世の人々の解放者として人々に奉仕する機会が与えられています。
ルカ8:54に「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。:55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」とあります。イエス・キリストはサタンの支配からの解放者として地上に来てくださいました。
今私たちは人々をサタンの奴隷から神がともに住まわれる約束の地へと導く者として召されています。
私たちは地上における救助者、解放者として召されていることを悟るなら、神の権威をもって人々の前に立つことができます。
自分を頼りとする働きと、神の召しとしての働きには大きな開きがあります。
地上における解放者として召されていることを悟るなら、神の持っておられるすべての権威をもって人々に奉仕することができます。
何故ならそれは私の働きではなく、神の働きそのものであるからです。
他人のために生き、人々の救助者、解放者となるために自分を捧げるなら、私たちは真の幸福に与ることが出来ます。
そのような素晴らしい神様の祝福に与っておりますことを感謝していきましょう。
また自らを人々の救助者、解放者として捧げてまいりましょう。
<要約>私たちは皆世の救助者、解放者として召されています。その性質の一つは、もう心配しない、と言うことです。ペトロの手紙T5:7に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあります。私たちはもう心配をするのは止めましょう。私たちのことは「神が心にかけてくださっている」とペトロは言っています。何か心配なことがあるでしょうか、ペトロは「何もかも神にお任せしなさい。」と言っています。私たちが成すべきことは神と一つになって神の思いを実行して行くこと、これが私たちが成すべき働きです。
二つには、「神の名に誉れを与える」と言うことです。クリスチャンは罪を犯してはいけないと考えていますが、それはクリスチャンの消極的な見方です。積極的に見ていくならば、それは、神様はこのように今も生きて働いておられます、と主の業を人々の前に現すことを目標とすると言うことです。人々は悪魔のだましごとの虜となり、その尊い人生が破壊されています。ルカ8:52に「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。」とあります。イエス様は人々の涙を御覧になり、その悲しみからの救い、解放を人々にもたらしました。イエス様は今も泣き悲しんでいる人々に、私たちを通して、救いと解放をもたらそうとしておられます。生き返った娘を見て「両親は非常に驚いた。」とあります。人々はこの出来事を見て、神様は確かに生きて働いておられると確信したに違いありません。神様は今も、私たちが「神の名に誉れを与える」そのような働きをするようにと願っておられます。クリスチャンは家庭においても社会においても積極的に「神の名に誉れを与える」ことが使命であり目標です。第三には、「解放者として召されていることを悟るなら」と言うことです。イエス様はヤイロの娘を生き返らせました。イエス・キリストはサタンの支配からの解放者として世に来てくださいました。今私たちは人々をサタンの奴隷から神がともに住まわれる約束の地へと導く者として召されています。私たちは地上における救助者、解放者として召されていることを悟るなら、神の権威をもって人々の前に立つことができます。地上における解放者として召されていることを悟るなら、神の持っておられるすべての権威をもって人々に奉仕することができます。私たちの働きは神の召しに従ったものだからです。