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「神から与えられた目的を生きている」(100718ku)
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ヨハネによる福音書 5:30
5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
 
神に見出された者が次に行うべきことは、約束の地を発見することです。誰にでも、神の国の力を発揮すべき、特別に与えられた約束の地があります。神の役に立ちたいならば、そこが入り口になります。
 しかし、召されていない場所ではあまりうまく行きません。魚は歩道では泳げません。魚の賜物はそこにはないからです。約束の地以外の場所で活動している人も同じです。召された分野の外で伝道しようとするのは不自然です。
 約束の地を見つけなければならない理由がここにあります。私たちはともすると自分は役立たずで、何も出来ない人間なのだ、と考えることがあります。しかし、これは悪魔のウソです。誰もが価値ある存在であり、それぞれ唯一の存在です。神様は私たちに役割を用意してくださっています。私たちには私がやらなければ成し遂げられることのない役割があります。
 
ではどのようにして約束の地を見つければよいのでしょうか。約束の地は愛と痛みが交差する所にあるとサンデー牧師は言っています。
 私が最初に痛みを感じたのは、日曜学校の子供が小隊に来なくなった時に感じました。その時には小隊長に自宅の地図を書いて貰って訪問をしたことがあります。また、友人を誘うことに上手(うま)く行かない、と恵の座で涙を流したこともあります。反社会的な人々の荷担をさせられた時には憤りを覚えたこともあります。
 モーセはヘブライ人を愛するあまり、誤ってエジプト人を撃ち殺してしまいました。殺人は肉の業でしたが、動機は正しいものでした。彼の愛と痛みはイスラエル人への思いの上で交差しました。
 
約束の地は情熱を感じる場所であり、心臓の鼓動が早くなり、状況を変えたいという強烈な飢え渇きを覚える場所です。
 
また、約束の地は、他の人々の必要のためにあります。約束の地は自分を磨くためのものでも、快適にするためのものでもありません。約束の地は私たちを他の人にとって有益な人にするためのものであると言うことです。
 
 人は天国に行くのをただ待っているのではなく、神から与えられた目的を生きている者です。進化論が導く答えはこの世界は偶然に造られたのだから「無目的」で「意味を持たない」と言うことであり、それは「どうしようもない絶望である」と言うのに比べると天地ほどの違いがあります。
 
私たちが神から与えられた目的を生きている時、それは自分をも守ることに繋がっています。つまり、神の目的を生きていない時には、人を批判することに関心を持ったり、興味本位のものに時間を費やしたりします。しかし、約束の地を発見することで、自己破壊的な傾向や、倦怠感が起きなくなります。
 神に従い、神が創造なさった意図にそって生きるなら、それだけで人生は満たされます。自己破壊的になったり、退屈したりする時間など無くなってしまいます。
 
第二には神に聞くと言うことです。
約束の地を発見するもう一つの方法は超自然的な方法です。神様の所に行き、私を創造された目的を尋ねます。創造主である神様は、私たちの人生の目的や使命をすべて知っている唯一のお方です。神様から直接声を聞くことなしに進むのは愚かなことです。
 神様は御言や、夢、説教、人からの忠告、或いは本などによっても与えてくださいます。イエス様は神に頻繁に思いを知っていただき、そしていつも神の忠告に従っていました。
 ヨハネによる福音書8:28「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
 
イエス様がなされたように私たちも、神様に具体的に尋ねてまいりましょう。私の約束の地はどこでしょうか、と。
そして大事なことは、霊的な目で見たことだけを実行すべきだと言うことです。
 イエス様は次のようにも述べています。
ヨハネによる福音書5:30「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
 
第三の点は教育を受けると言うことです。
ひとたび約束の地を探し当てたなら、その地を十分に探索します。モーセはイスラエル人の約束の地を探るため偵察隊を派遣しました。
 約束の地を探索する最善の方法は教育を受けることです。私たちはともすると聖書さえ学んでいれば大丈夫と考え、教育を軽視してきました。そのため人生のあらゆる場面で、神を信じない人々に太刀打ちできなくなってしまいました。専門知識やサービス技術を磨き、向上を目指し続けた人々が、神の国に属していないにもかかわらず、この世を動かすようになりました。私たちは、神の油注ぎがあれば大丈夫と勘違いしてしまった愚か者です。
 聖書は次のように言っています。
「思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。愚か者は無知をさらけ出す。」(箴言13:16)
「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。」(箴言3:13)
 
私たちは教育によって自分自身の能力を最大限に高めるべきです。生涯学び続ける人になって、神の手の鋭い矢として頂きましょう。
 
教育を受けずに約束の地を得ようとしても、うまく行きません。逆に、専門分野においてきちんとした訓練を受ければ成功は確実です。
 これは自分自身のためというよりも、国を変革させるための働きです。知識は、暗闇、悪、無知を追い散らすための神の主要な手段です。知識があれば最終的には成功します。
 
最近私は、家内が買い物がほとんど出来なくなっているので私が主夫となって日用品や食品を買うようになっていますが、先日は台ふきを買って来て、よく見たら食器用と書いてありまして用が足りませんでした。知識がないというのはこういうことです。
 
クリスチャンは約束の地に入るに当たって有利であると同時に、一段と重い責任も担っています。知識だけでは国を建て上げることは出来ません。知識は正義につながるものでなければなりません。聖書に出てくるダニエルのように、専門的な知識に加え、高潔、清さ、愛、思いやりなど、神の国の原則を併せ持つことが大切です。キリストの心が与えられていれば、学んだことを霊的な知識や知恵に結びつけることが出来ます。クリスチャンにはこの世の視点に加え因(よ)り優れたアプローチが可能である訳です。
 
ヨハネによる福音書5:19「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」とあります。
 教育と知恵がイエス様による支配の秘訣でした。イエス様は父なる神に注目し、その通りに行動することによって知識を身につけました。私たちも同じです。誰も、持っている知識以上のことは出来ません。知識と理解力を求めれば、あらゆる障害物が取り除かれます。神からの啓示の前に、すべてのものが膝をかがめます。
 
私たちは「神から与えられた目的を生きている」時、すべての悪から守られ、神の国を体験することが出来ます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 神に見出された者が次に行うべきことは、約束の地を発見することです。私たちには私がやらなければ成し遂げられることのない役割があります。約束の地は愛と痛みが交差する所にあります。モーセはヘブライ人を愛するあまり、誤ってエジプト人を撃ち殺してしまいました。殺人は肉の業でしたが、動機は正しいものでした。彼の愛と痛みはイスラエル人への思いの上で交差しました。約束の地は情熱を感じる場所であり、状況を変えたいという強烈な飢え渇きを覚える場所です。人は天国に行くのをただ待っているのではなく、神から与えられた目的を生きている者です。神に従い、神が創造なさった意図にそって生きるなら、それだけで人生は満たされます。自己破壊的になったり、退屈したりする時間など無くなってしまいます。第二には神に聞くと言うことです。神様の所に行き、私を創造された目的を尋ねます。創造主である神様は、私たちの人生の目的や使命をすべて知っている唯一のお方です。イエス様は神に頻繁に思いを知っていただき、そしていつも神の忠告に従っていました。「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(ヨハネ8:28)
 
第三の点は教育を受けると言うことです。約束の地を探し当てたなら、その地を十分に探索します。約束の地を探索する最善の方法は教育を受けることです。教育を軽視してきたため人生のあらゆる場面で、神を信じない人々に太刀打ちできなくなってしまいました。私たちは、神の油注ぎがあれば大丈夫と勘違いしてしまった愚か者です。聖書は次のように言っています。「思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。愚か者は無知をさらけ出す。」(箴言13:16)私たちは教育によって自分自身の能力を最大限に高めるべきです。クリスチャンは世の知識に加え神の国の原則を適用する事が出来ます。聖書に出てくるダニエルのように、専門的な知識に加え、高潔、清さ、愛、思いやりなど、神の国の原則を併せ持つことが大切です。クリスチャンにはこの世の視点に加え因り優れたアプローチが可能である訳です。誰も、持っている知識以上のことは出来ません。知識と理解力を求めれば、あらゆる障害物が取り除かれます。神からの啓示の前に、すべてのものが膝をかがめます。私たちは「神から与えられた目的を生きている」時、すべての悪から守られ、神の国を体験することが出来ます。