民数記13:30〜14:11
14:5 モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。14:6 土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、14:7 イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。14:8 もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。14:9 ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」14:10 しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った。主の栄光はそのとき、臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れた。14:11 主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。
今日のテキストとした所は、出エジブトを果たしたイスラエル人を神様はいよいよ約束の地カナンに導き入れようとした時の記事です。初めに約束のカナンの地を偵察することと成、12部族から族長が選ばれました。40日間の偵察を終えた彼らは「カナンは乳と蜜の流れる豊かな土地である、けれども、そこに住む先住民は、とても強く、我々がカナンに入ることは不可能です。」との報告でした。
それに対して13:30で偵察隊の一人カレブは「いやいやそんなことはありません。私たちは必ず勝利できます。」と答えている訳です。しかし、繰り返し否定的な見方をする偵察隊の人たちは「さあ、我々はエジブトへ帰ろう」(14:4)とまで言い出します。
そこで偵察隊のヨシュアとカレブは(14:8)「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れてくださる」と主張する訳です。
しかし、どこまでも否定的に見る偵察隊の人々と全会衆は彼らを石で撃ち殺そうとしました。
そこに主は臨在してくださり言いました。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行(おこな)ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。」
この出エジブトの出来事の結果は次のようになりました。
つまり、主を信じなかったイスラエル人は40年の間荒野をさまようこととなり、カナンに入ることは出来ないと言った人々は全て荒野で死に絶えました。つまり、彼らは自分が予見した通りカナンの地には入れなかったと言うことです。
しかし、入れると予見したヨシュアとカレブとかつての会衆の子供達は約束の地カナンに入りました。つまり、主を信じて「勝利は我々のものだ」と言った人々は、その信じた通りになりました。しかし、信じなかった人たちもやはり、信じなかった通りになりました。
イスラエルの歴史が聖書に記されているのは、今の時代の私たちクリスチャンに対してのメッセージとして記されている訳です。
マタイ28:18「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。
これが私たちクリスチャンへの命令です。つまり、すべての国はキリストの国と呼ばれるようになるという事です。なぜならばイエス様は私たちに出来ないことを命じることはなさらないからです。これを私たちは信じなければ成りません。かつてのイスラエル人はカナンに入るには困難があると信じました。しかし、ヨシュアとカレブは主が共にいてくださるなら不可能なことなど何もない、と信じました。
但し勿論条件はありました。それはヨシュアが言った(14:8)「我々が主の御心に適うなら」と言うことです。
信仰というのは、信じると言うことです。信じない人は信仰者とは言われません。
何年か前に雑誌の中で目に止まったのですが、ある牧師が言っていました。日本の伝道に対して「難しいという人が難しくしているのです」と言うことでした。成るほどそう言われればそうですね、と言うことで私はそれ以来「日本の伝道は難しい」とは言わなくなりました。
実際、真実に日本の伝道のために信じて励んでいる人々の前で「日本の伝道は難しいよね」、と言ったなら、当然彼らの足を引っ張ることになる訳です。ですから私はこの「日本の伝道は難しい」と言うことを言わないと言う運動を広めたいと思っています。
今後は是非皆さんも、難しいとか困難があるなどと言うことを言わないようにしていただければ感謝です。
私が最初に見たビジョンは月島小隊に任命を頂いた時に「月島にも救世軍村が出来るに違いない。」と言う啓示を頂いたのが最初です。次に熊谷小隊に任命された時には「熊谷市長に救世軍人を送ろう」と言う啓示を頂きました。そして再び東京に帰ってきた時には「まもなく日本はキリストの国と呼ばれるようになる」と言う啓示を頂来ました。
やはり、信仰と言うのはいきなり大きな啓示が与えられる訳ではありません。段階を踏んでいく必要があります。
エバンゼリン・ブースは「世界を神にと」と歌いましたが、私はまだ、世界までの信仰には達していない気がしますが、しかし、勿論信じています。
ジョン・レノンのイマジンという曲では次のように歌っています。
想像してごらんよ みんなが 平和な暮らしを送っていると
想像してごらんよ みんなが 世界を分かち合っていると
想像してごらんよ いつかあなたも仲間に加わって 世界はひとつになるんだ
この曲が訴えているのは、全ての人が、「世界に平和が実現した社会」をイメージするならば、その事は現実となりますよ、と言うメッセージです。
今日のフリーという曲も同じです。想像すると言うことと、信じると言うことは同じです。マルコ11:24に「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」とある通りです。
「1. 信じてごらんよ この世界変えるのは いま僕らさ
信じてごらんよ 全ての夢かなうよ 今日
信じてごらんよ 願うまま生きられる 今日
2. 信じてごらんよ 神の奇跡起こるよ いま世界で
信じてごらんよ 信仰で一歩 踏み出せばいい
信じてごらんよ 神にできないことはない」
何をするにも、信じて行うのでなければ意味がありません。
失敗すると信じて行えばそれも、信じた通りになります。成功すると信じて行えばそれも、信じた通りになります。
すべてを実現してくださる主に賛美を捧げましょう。