ガラテヤの信徒への手紙6:9
6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
私たちクリスチャンとはどのような存在でしょうか、確認をしたいと思います。
第一に私たちクリスチャンは肉の思いに対してノーと意思表示している者です。つまり邪悪なものに対してノーと言っている者です。これらを支配しているものはサタンです。ガラテヤの信徒への手紙5:19には次のように記されています。「5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
以前にはこのような思いは、良いとは思っていませんでしたが、しかし、その様な肉の思いがあるのは現実であって、そのような中で生きていかなければならない、と考えていました。
しかし、イエス・キリストはこれらの世界を完全に否定し、戦いを挑みました。そして既に勝利されています。勿論、この世を支配しているものはサタンですから、あらゆる場面に肉の思いが現れ傷を受けます。また、自分自身の中からも肉の思いが沸き起こってきて、人を傷つけ、平和が壊されています。私たちの先生はただお一人であり、それはイエス・キリストです。肉の思いに対して完全に勝利を収めると言うのがクリスチャンの目標です。
ですから、今日(きょう)のテーマである「クリスチャンとは戦う人です」と言うことが言える訳です。戦う人と言うよりも戦い続ける人と言う方が正確な言い方です。止(や)めてしまったらクリスチャンとは言えません。ですからパウロはローマの信徒への手紙12:2で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と言っています。口語訳では「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」と言っています。
クリスチャンはともすると、愛を与える者、平和を造り出す者との思いから、この世に倣い、或いはこの世と妥協している所があるのではないでしょうか。これは決して平和を造り出すものではないことを覚えたいと思います。私たちが真に世を愛するのであるならば、世から悪を取り除くと言うことに力を注がなければなりません。
この世との妥協は世を愛しているのではなく、自分を愛している行為です。つまり争うことを放棄し、人からも良い人間と見られたいとの欲求から出ているものに過ぎない行為である訳です。誰からも愛されたい、つまり八方美人になりたいと言うのはクリスチャン的ではありません。クリスチャンは神を受け入れようと言う人からは愛されますが、そうでない人々からは憎まれる存在です。
私たちクリスチャンの姿勢は、罪は憎み、人は愛するという姿勢です。すべての人には悪い人はいません。悪いのはその人を騙(だま)しているサタンです。ですから、人々から罪が取り除かれることを願いつつ辛抱強く愛を注いでいかなければなりません。
この点でもイエス様は手本を示しています。マタイによる福音書16:21に次のように記されています。「16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
ここでイエス様はペトロを叱(しか)っていますが、ペトロを憎んでこう言ったのではなく、ペトロを愛しているが故に語られたものです。ペトロの中にある悪い思いを取り除くことが本当の愛の行為である訳です。
「クリスチャンとは戦う人」であることの、イエス様のもう一つのお手本は、宮清めに現されています。マタイによる福音書21:12「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。21:13 そして言われた。『こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』、ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。』」。
ヨハネによる福音書2:17では「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」と記しています。イエス様は、優しいだけの、「何でもいいよ、あなた達の良いようにしなさい」と言うようなお方ではありません。
それどころか人々を愛するが故に、ご自分の命までも差し出すほどの熱意を持って世の悪と戦われました。
もう一つの戦いは自分自身の中にある悪との戦いです。
ガラテヤの信徒への手紙5:19に記されていたのは「姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴」でした。これらは外からもやってきますが、私たちの内側からもやってきます。これらについては私たちは勝利できないことが分かっています。その様な弱い存在であることが分かったので、降参した者です。
そして自分自身をイエス様に明け渡しました。ですから何をするにも私の思いでするのではなく、イエス様の思いをしようとしているのが私たちクリスチャンです。
ガラテヤの信徒への手紙2:20に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とある通りです。
自分の中に悪い思いが出てきたならば、直ぐにそれを捨て去り、イエス様に来て頂きイエス様に主導権を取って貰います。それによって私たちは勝利することが出来ます。
これによって私たちは内なる罪から完全に勝利する者と変えられます。勿論これは日々、どこにあってもキリストと共に歩むと言うことが必要です。礼拝の時にイエス様に住んで頂きました、と言うだけでは十分ではありません。日々、どこにあってもキリストと共に歩むと言うことが必要です。
私たちはこの世から、そして人々の間から罪を取り除くために、自分自身の弱さからキリストにあって勝利していなければなりません。そして御霊の実と言われる「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制」(ガラテヤ5:22-23)を身に付ける必要があります。
私たち人間は地上における最高の被造物です。ですから、逆境や邪悪な力と戦うことは、御国の栄光に与(あずか)らせようとする神様のご計画の一部である訳です。
私たちは信じ愛し、戦い続けなければなりません。聖書は「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9 )と約束してくださっています。
私たちは意気そそうしないように、また戦いから逃げ出さないように注意しなければなりません。もし逃げ出せば永遠の滅びがあります。もし終わりまで戦い抜くならば、たとえ死んだとしても勝利を得ることになります。
<要約>
クリスチャンとは肉の思いに対してノーと意思表示をしている者です。つまり邪悪なものに対してノーと言っている者です。これらを支配しているものはサタンです。その性質はガラテヤ5:19-21に「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」とあります。以前にはこのような思いがあるのは現実であって、そのような中で生きていかなければならない、と考えていました。しかし、イエス・キリストはこれらの世界を完全に否定し、そして既に勝利されています。勿論、この世を支配している者はサタンですから、あらゆる場面に肉の思いが現れ傷を受けます。また、自分自身の中からも肉の思いが沸き起こってきて、人を傷つけ、平和が壊されています。私たちの先生はただお一人であり、それはイエス・キリストです。肉の思いに対して完全に勝利を収めると言うのがクリスチャンの目標です。ですから、今日(きょう)のテーマである「クリスチャンとは戦う人です」と言うことが言える訳です。悪に対して戦い続ける人です。やめてしまったならクリスチャンとは言えません。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」(ローマ12:2口語)。これがクリスチャンです。
もう一つの戦いは自分自身の中にある悪との戦いです。ガラテヤ5:19の肉の思いは外からもやってきますが、私たちの内側からもやってきます。これらについては私たちは勝利できないことが分かっています。その様な弱い存在であることが分かったので、降参した者です。そして自分自身の指導権をイエス様に明け渡しました。これによって私たちは肉の思いに勝利することを選んだ者です。ですから何をするにも私の思いでするのではなく、イエス様の思いをしようとしているのが私たちクリスチャンです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)とある通りです。自分の中に悪い思いが出てきたならば、直ぐにそれを捨て去り、イエス様に来て頂くことによって私たちは勝利することが出来ます。これによって私たちは内なる罪から完全に勝利する者と変えられます。勿論これは日々、どこにあってもキリストと共に歩むと言うことが必要です。礼拝の時にイエス様に住んで頂きました、と言うだけでは十分ではありません。日々、どこにあってもキリストと共に歩むと言うことが必要です。聖書は「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9 )と戦い続けることを教えています。