フィリピの信徒への手紙 4:10〜13
4:10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
フィリピの信徒への手紙は他の手紙と共に獄中書簡と言われているものです。他の手紙とはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。ここにフィリピの信徒への手紙が加わりますので、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙と3書簡はロマ、コリ、ガラの次に続けて新約聖書に収められているものです。
「ぶらさがり」と言うのは、つまり信仰による最大の恩恵のことを言います。これまで私は信仰による恩恵はダルマさんになれることだと言ってきました。つまり、最後は必ず起きあがっていますという意味です。先週のテーマでありました風にそよぐ葦も又、根が神様に繋がっているので倒れませんよとの意味があります。ぶらさがりとは神様に繋がってしっかりと立つと言うのではなく、神様にぶらさがると言う意味です。
これは神様にぶらさがっていますので、風がどんなに吹いても何の影響も受けません。但しその人生そのものは風によって右へ左へと動かされます。又、神様自身が右へ左へと動かす事もあります。しかし、本人自身は神様のふところに安んじている状態なので、平和であり、平安が保たれています。つまり、人生を神様にお任せしているので、そのような平和が実現する訳です。
先週引用した所はヤコブの手紙1:6-8でした、「:6 疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と言うことです。つまり、どんな逆境の中にも神様を疑うようであってはならないと言うことです。
神様を疑う人はぶらさがりの信仰とは言えません。ぶらさがりの信仰とはつまり照る照るぼうずをイメージして頂ければ分かり安いでしょう。今まではダルマさんや風にそよぐ葦でしたが、照る照るぼうずの方が高い信仰を現しています。
ローマの獄中から福音を発信しているパウロは実にこの、照る照るぼうず、ぶらさがり信仰を持っている人です。彼は自分を守るために、人にへつらったり、妥協したりすることはありませんでした。彼は、守るべき自分は持っていなかったと言う事です。神様にぶらさがっているので、自分で自分を守る必要はなかった訳です。神様が常にパウロを守ってくださるのでパウロは自分自身のことはちっとも気に掛けません。
パウロの気に掛けているのは「神の国と神の義」(マタイ6:33)を如何(いか)に実現し、現すかと言うことでした。
パウロのそのような信仰姿勢から書かれたフィリピの信徒への手紙は他のパウロの書簡以上に、パウロ自身の信仰姿勢を現しているものと感じます。
1:8を見てまいりましょう。「1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
8節ではフィリピの信徒への熱い思い、熱いだけではなく豊で大きな愛を感じさせられます。9節では「知る力と見抜く力とを身に着け」るようにと言っています。そして「本当に重要なことを見分けられるように。」(10)と言うことです。パウロ自身は何が重要で何が真実なことかを理解し、そして見抜いています。それはぶらさがり信仰から来るものです。
パウロは更に「神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(11)と結んでいます。パウロの気に掛けていることの最終的な目標です。
1:20でもパウロの自分自身のことを気を掛けない姿勢が出ています。「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とあります。
「キリストが公然とあがめられる」そのような時を度々経験したいと願います。
1:27では「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と薦めています。
私たちは「キリストの福音にふさわしい生活」と言うものを常に心がけなければなりません。
2:10には「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べ」る(11)、これが私たちの喜びである訳です。その鍵となるものは「従順」と言うことです。そのことが12節で述べられています。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
従順については、またキリストの従順を引用しています。2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
このような信仰生活の中にあなた方は星のように輝く者と変えられますと述べています。2:15-16「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。」
パウロの信仰姿勢から見出されるもう一つのことは真実でないものが明瞭に見えてくると言うことです。2:20「2:20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」
テモテを称賛する一方で、そうでない人も居ると言うことを指摘しています。以前にボン・ヘェッファーを紹介しましたが彼は霊的な愛と人間的な愛があります、人間的な愛は自分のために隣人を愛しますが、霊的な愛はキリストのために隣人を愛するのであって時には厳しく叱責する事もあるが、人間的な愛はそれが出来ないのです、と言う点を述べていました。
パウロはそのような誤りに陥らないようにと2:21で述べている訳です。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」
同じ点について、3:18にも述べられています。「3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」
パウロのような、ぶらさがり信仰に至っていないと、いつの間にか、せっかく福音に与っているにも拘わらず、自分のことで頭が一杯になってしまったり、人の目が気になったり、この世の誇りに満足したり、追い求めたりと言う事が起こってきます。
厳に注意を払わなければなりません。
フィリピの信徒への手紙4:11「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。:12貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」
照る照るぼうずのように神様にぶらさがっているのであれば、私たちは自分自身のことを気に掛ける必要はありません。どのような境遇に移されるとも神様の守りから切り離されることはない訳です。
波風に逆らい、こんなはずはないと神様を疑う時に平安を失い、思い煩い、霊と身体とを壊してしまいます。信仰の最大の恩恵は神様がおられると言うことを信じることが出来ることです。そして、このお方に繋がっているのであれば何も思い煩うことはありません。
パウロは言いました「4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」。神の子とされている私たちクリスチャンは神様の財産の相続人とされています。自分自身を神様に献げるならば、神様の持っておられるものはまた、全部私たちのものでもあります。
イエス様の、贖いの業の故に感謝を捧げてまいりましょう。
<要約>
「ぶらさがり」と言うのは、つまり信仰による最大の恩恵のことを言います。これまでは信仰による恩恵はダルマさんになれることだと言ってきました。つまり、最後は必ず起きあがっていますという意味です。ぶらさがりとは神様にぶらさがると言う意味です。これは神様にぶらさがっていますので、風がどんなに吹いても何の影響も受けません。但しその人生そのものは風によって右へ左へと動かされます。又、神様自身が右へ左へと動かす事もあります。しかし、本人自身は神様のふところに安んじている状態なので、平和であり、平安が保たれています。つまり、人生を神様にお任せしているので、そのような平和が実現する訳です。風に抵抗しようとする時に人は困難や思い煩いを覚えます。ヤコブ1:6-8に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」とあります。つまり、神様への信頼を欠き風や、神様の導きに抵抗する時に問題が生じます。「ぶらさがり」、つまり、ぶらさがり信仰とは照る照るぼうずをイメージして頂ければ分かり安いでしょう。神様の統治を信じ何時も神様にぶらさがっているのが照る照るぼうずです。ローマの獄中から福音を発信しているパウロは実にこの、照る照るぼうず、ぶらさがり信仰を持っている人です。彼は自分を守るために、人にへつらったり、妥協したりすることはありませんでした。彼は、守るべき自分は持っていなかったと言う事です。神様にぶらさがっているので、自分で自分を守る必要はなかった訳です。神様が常にパウロを守ってくださるのでパウロは自分自身のことはちっとも気に掛けません。パウロの気に掛けているのは「神の国と神の義」(マタイ6:33)を如何(いか)に実現し、現すかと言うことでした。パウロのそのような信仰姿勢から書かれた手紙がフィリピの信徒への手紙であり、その信仰姿勢がよく現わされています。
1:20-21「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(自分を守ろうとしていない)。2:10-11「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(神の栄光のみを求めている)。ぶらさがり信仰の鍵は「従順」と言うことです。2:12「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。また、2:7-8「(キリストは)人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とイエス様の従順に学ぶようにと薦められています。神の子とされている私たちクリスチャンは神様の財産の相続人とされています。自分自身を神様に献げるならば、神様の持っておられるものはまた、全部私たちのものでもあります。イエス様の、贖いの業の故に感謝を捧げてまいりましょう。