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「唯一の権威」(101205ku)
 
ダニエル書3:16〜18
 
私たちクリスチャンは長年にわたり、お祈りによってすべての必要と問題を解決しようとしてきました。私たちが祈り求める事は、神様が実現してくださると信じてきました。しかし、聖書は何と言っているでしょうか。
 それは、行いのない信仰は無意味であり、どのような結果も生み出さないという事です。神の御心に叶う行いを伴わない限り、それは死んだ信仰に過ぎないと言う事です。
ヤコブの手紙2:17「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
 
先週のメッセージでは「赦す」ことと「謝る」ことについて、行動する必要があると学びました。
神様は私たちが行動するのを待っておられます。信仰に基づいた行動が取られるようにと神様は待っています。
教会のテーマソングに「信仰で一歩 踏み出せばいい」と歌っていますが、祈り、信じ、そして行動に移す必要があると言う事です。
イスラエル人がヨルダン川の水に一歩踏み出した時に、川はせき止められ、神の御心は実現しました。今日(こんにち)神様は私たち一人一人が取るべき行動を取る事を待ち望んでおられます。
 
私たちの身の回りでは、日々神の御心に反する事が公然と行われています。そしてその圧力が私たち自身にも及んできています。職場で、地域社会で、親戚の付き合いで、サークルの中で。職場では、不正を強要され、地域社会や親戚の付き合いの中では、偶像礼拝に関する問題が強要される事があります。
仏式の葬儀などでは、黙祷をもって儀礼とすることが一般的になっています。"うちわ祭り"の寄付の要請には今年はお断りいたしました。
 
また先日、精神疾患のある人が迷子になっていたので、警察を呼んだところ、あなたは何年生まれですかと言うので、「1954年生まれです。」と答えましたら、昭和で言うと何年ですかと言うので、「知りません。」と答えたのですが、正確には「答えたくありません」と言うのが正しい答えでした。私は聞く方も悪いと思います。教会の牧師に「昭和天皇の暦で言うと何年ですか」なんて、失礼な話しです。勿論天皇もイエス・キリストの救いを受け入れる事を私は願っています。
 
ダニエルの友人でありました、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは金の像を拝むようにとのネブカドネツァル王の命令に、彼らは対抗しました。神を唯一の権威とする人たちにとって、従わなければ死ぬ事になる命令でさえ、彼らにとっては怖くありませんでした。
この若者たちが王の命令に従わなかったのは、それが明らかに神の御心に反する命令とわかっていたからです。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えました。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。3:17 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。3:18そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(3:16-18)
 
彼らは神の権威に従う事によって予想される状況はわかっていました。それは死を意味するものでした。しかし、実際はどうなったでしょうか。燃え盛る炎はこの若者たちに触れる事はありませんでした。私たちは信仰によって一歩踏み出す時に、予想とは違う新たな展開を経験する事が出来ます。
イスラエル人の若者たちの行動によって、何が起こったのでしょうか。それは人々の前に「神を現した」と言う事です。これによって人々は神の祝福に与る事が出来ます。
私たちも人々の前に「神を現す」時、それは人々の救いへと繋がっていきます。もし唯一の神の権威に従わず、この世の権威に妥協していたならば、そこには何も起こりません。行いのない信仰は死んだものだからです。
 
クリスチャンは、天地を支えておられる全能の神の自由な子ども達である事を自覚する必要があります。確かにクリスチャンは、偉大な羊飼いであられる神の羊です。しかし、不敬虔な権威の前にほふられていく子羊のようにふるまう必要はありません。確かにクリスチャンは神の奴隷ですが、世の奴隷となる必要はありません。
クリスチャンは従うべき権威と言うものがハッキリしているので大変恵まれた存在です。世の人々はどの権威を優先すべきかと、何時もアンテナを張っていなければなりません。それらの状況は日々変化するからです。ですから世の人々は不安と恐れに悩まされる事が多くあります。しかし、クリスチャンが従うべき権威は一つです。
 
ヨハネT4:18に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」とありますが、神を第一とする者はすべての恐れから解放されます。
コリントの信徒への手紙U5:15に「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」とあります。イエス・キリストはご自身の死と復活によって、、その圧倒的な証拠によって神の主権、神の権威を示されました。
 
私たちは、尾ではなく、頭(かしら)となるべき者たちです。人々が神の御心を行う事ができるように、案内し、導くために、神は私たちを祭司とし仲介者として召してくださいました。ほかのどのような権威にも身を屈(かが)めてはいけません。私たちの唯一の権威は神であるからです。
イエス・キリストはこのお方を指し示すために私たちの地上に降り立ち、その死と復活によって、その証印とされました。主のご降誕をお祝いすると共に、その目的をハッキリと自分の中で確かなものとしてまいりましょう。
 
コリントU5:15「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
人々の中に神を現し、人々の救いとなるお互いでありますよう願います。
 
 
 
 
 
 
《今日の聖書》
3:16 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。3:17 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。3:18 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 私たちは長年にわたり、お祈りによってすべての必要と問題を解決しようとしてきました。 しかし、聖書は何といっているでしょうか。それは、行いのない信仰は無意味であり、どのような結果も生み出さないという事です。神の御心に叶う行いを伴わない限り、それは死んだ信仰に過ぎないと言う事です。ヤコブの手紙2:17「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。神様は私たちが行動するのを待っておられます。信仰に基づいた行動が取られるようにと神様は待っています。小隊のテーマソングに「信仰で一歩 踏み出せばいい」と歌っていますが、祈り、信じ、そして行動に移す必要があります。私たちの身の回りでは、日々神の御心に反する事が公然と行われています。職場では、不正を強要され、地域社会や親戚の付き合いのなかでは、偶像礼拝に関する問題が強要される事があります。
 
ダニエルの友達でありました、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは金の像を拝むようにとのネブカドネツァル王の命令に、彼らは対抗しました。この若者たちが王の命令に従わなかったのは、それが明らかに神の御心に反する命令とわかっていたからです。「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(3:18)。彼らには神の権威に従う事によって予想される状況はわかっていました。それは死を意味するものでした。しかし、実際はどうなったでしょうか。燃え盛る炎はこの若者たちに触れる事はありませんでした。私たちは信仰によって一歩踏み出す時に、予想とは違う新たな展開を経験する事が出来ます。イスラエル人の若者たちの行動によって、何が起こったのでしょうか。それは人々の前に「神を現した」という事です。これによって人々は神の祝福に与る事が出来ます。私たちも人々の前に「神を現す」時、それは人々の救いへと繋がっていきます。もし唯一の神の権威に従わず、この世の権威に妥協していたならば、そこには何も起こりません。行いのない信仰は死んだものだからです。主のご降誕をお祝いすると共に、その目的をハッキリと自分の中で確かなものとして参りましょう。人々の中に神を現し、人々の救いとなるよう努めて参りましょう。