コヘレトの言葉10:5〜7
10:5 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで10:6 愚者が甚だしく高められるかと思えば/金持ちが身を低くして座す。10:7 奴隷が馬に乗って行くかと思えば/君侯が奴隷のように徒歩で行く。
引き続き勝利者の心の態度に付いて見ていきます。勝利者としての心の態度を保つ人は、常に勝利へと向かっていると言うことです。勝利者とは、あらかじめ勝利するようにプログラムされている人のことです、と学びました。
物事を決して諦(あきら)めない、勝利に向かってあらゆる方策を実践し、勝利を勝ち取っていきます。クリスチャンには勝利が約束されているので、勝利すべきプログラムを立案し実践していきます。
それは神様はクリスチャンが世のリーダーとなることを願っているので、その様な心の態度を保ち、実践していきます。
マルコによる福音書9:21から次のようにあります。
「イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」
この所でイエス様は「できれば 治してください」と言うのか、と言っています。
私たちクリスチャンには勝利が約束されているので、勝利すべきプログラムを見つけ出すまで努力し、そして、それを勝ち取っていくべきです。
神様が私たち人間に望んでおられることは、この地上が神の原則によって物事が進められていくことです。神の秩序と道と原則を地上に確立すること、これが神様が望んででおられることです。
そして、これを実践すべき人々とはクリスチャンだけです。ですから神様はクリスチャンがこの地上で指導的な役割を担うようにと望み、支援しておられます。ですからクリスチャンとは勝利者であり、勝利者とは、あらかじめ勝利するようにプログラムされている人のことです、と言っている訳です。
ですから私たちは、勝利に満ちた考え方を何時でもするように致しましょう。そうするならばその計画は実現いたします。
コヘレトの言葉は次のように言っています。
「10:5 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで10:6 愚者(ぐしゃ)が甚だしく高められるかと思えば/金持ちが身を低くして座す。10:7 奴隷が馬に乗って行くかと思えば/君侯が奴隷のように徒歩で行く。」
これは残念ながら現在の、私たちの社会の実状を現しています。ここで愚者とはサタンの虜となっている世の人々のことです。その様な人々が現在は世の指導者となり、世を治めています。そして賢者であるはずのクリスチャンはその支配の中にかろうじて生きているという状態です。
それは神の知恵を理解していても、それを実践しようとしていないために起こっていることです。自分たちの役割が何であるかを理解していないためです。せっかく神様の原則を学んでいるにも拘わらず、その知恵が用いられていません。
7節の奴隷というのも同じく、サタンの虜となっている世の人々のことです。彼らが馬に乗って行き、賢者であるクリスチャンが徒歩で行く、と言っています。
これは本来とは逆さまになっています。神様は今の現状を見て悲しんでおられます。
神様は世の不法を根絶し、神の義を確立するようにと願い、私たちに聖霊を送り、力と権威を与えてくださっています。
イザヤ書に次のように記されています。
「61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」
世を傷つけているものは汚職や、犯罪、アルコール、ポルノ、家庭崩壊というようなものです。神様はこれらの不法が贖われるように、私たちが行動するようにと願っています。イザヤ書ではクリスチャンを「正義の樫の木」と呼んでいます。
神様は私たちの心の扉を叩き、待っておられます。神様が地上で働きを成すためには、私たちの積極的な行動が必要です。
私たちは、地上の不法を裁き、神の権威をもって真理を打ち立てるために召されています。
そして自分自身を頼りとするのではなく、私たちの内に生きておられる神の力と強さに頼る習慣を身につけ、勝利に満ちた考え方をするように心がけていきましょう。
それによってこの地上が贖われます。
私たちが神様を信頼し、自分自身を委ねているのであれば、勝利が約束されています。世を変えるには全き献身が必要です。世のために自分の全部を献げてまいりましょう。
<要約>勝利者とは、あらかじめ勝利するようにプログラムされている人のことです、と学びました。物事を決して諦めない、勝利に向かってあらゆる方策を実践し、勝利を勝ち取っていきます。クリスチャンには勝利が約束されているので、勝利すべきプログラムを立案し実践していきます。それは神様はクリスチャンが世のリーダーとなることを願っているからです。イエス様はマルコ9:23で「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言っています。イエス様はクリスチャンは何でもできる(勝利する)と言っています。神様が私たち人間に望んでおられることは、この地上が、神の原則によって物事が進められて行くようにと言うことです。神の秩序と道と原則を地上に確立すること、これが神様が望んででおられることです。そして、これを実践できる人はクリスチャンだけです。ですから神様はクリスチャンがこの地上で指導的な役割を担うようにと望み、支援しておられます。ですから私たちは、勝利に満ちた考え方を何時でもするように致しましょう。
しかし、コヘレトの言葉は次のように言っています。「奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君侯が奴隷のように徒歩で行く。」(10:7)。これは残念ながら現社会の実状を現しています。ここで奴隷とはサタンの虜となっている世の人々のことです。その様な人々が世の指導者となり、世を治めています。そして賢者であるはずのクリスチャンはその支配の中にかろうじて生きているという状態です。それは神の知恵を理解していても、それを実践していないために起こっていることです。自分たちの役割が何であるかを理解していないためです。せっかく神様の原則を学んでいるにも拘わらず、その知恵が用いられていません。これは本来とは逆さまになっています。神様は今の現状を見て悲しんでおられます。神様は世の不法を根絶し、神の義を確立するようにと願い、私たちに聖霊を送り、力と権威を与えてくださっています。イザヤ書に次のように記されています。「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる。」(61:3)。世を傷つけているものは汚職や、犯罪、アルコール、ポルノ、家庭崩壊というようなものです。神様はこれらの不法が贖われるように、私たちが行動するようにと願っています。イザヤ書ではクリスチャンを「正義の樫の木」と呼んでいます。私たちは私たちの内に生きておられる神の力と強さに頼る習慣を身につけ、勝利に満ちた考え方をするように心がけていきましょう。世を変えるには全き献身が必要です。世のために自分の全部を献げてまいりましょう。