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「よそ者じゃない」(110220ku)
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使徒言行録8:26〜40
8:26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。8:27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官(かんがん)が、エルサレムに礼拝に来て、8:28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。8:29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。8:30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。8:31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。8:32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠(ほふ)り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。8:33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 8:34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。8:36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 8:37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。8:39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。8:40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。
 
集会案内のチラシを約一ヶ月の間に7,000枚を配布したことがありましたが、その終わり頃になって与えられたイメージが今日のテーマであります「よそ者じゃない」と言うことでした。
皆さんにお伝えしていることは物事を肯定的(positive)に考えなさい、否定的(negative)に考えてはいけません、と言うことでした。これは私自身、自分に言い聞かせていることでもあります。しかし、長い間否定的に物事を考える習慣が身に付いてしまっているので、意識していないと、いつの間にか古い自分に戻ってしまっています。
 
つまり、チラシをポストに入れるのは、そのお家(うち)の人にとっては「迷惑なことだろう」、そう考えながら恐る恐るチラシを入れていく訳です。その様なときにお家(うち)の人が外に居たりすると、ばつの悪い思いをしてしまいます。その時の対応は決して「勝利者としての心の態度」ではない訳です。
そのような中で与えられたイメージが「よそ者じゃない」と言うことです。本来は受け入れられているとか、愛されている、必要とされていると言うことなのですが、これらの言葉を「よそ者じゃない」という言葉は一言で現すことができる便利な言葉です。「よそ者」と言う意味は、(その土地で生まれるか、その土地に住みなれているかではなく)よそから新たに来た者。他国者。(仲間はずれにする)
と言う意味がありますが、これを反対にすると、迷惑なよそ者ではなく、同じ仲間同士です、と言うことです。
チラシ配布をしていると、散歩をしている人などに出会うのですが、なかなか挨拶をすることができないでいましたが、自分は彼にとって「よそ者じゃない」と言うイメージを持つことによってだんだんと挨拶ができるようになりました。
 
今までは頭の中では人類は皆兄弟姉妹といつも考えていた訳ですが、この言葉では目の前に現れた初めての人に挨拶をすることができませんでした。
皆さんも是非やってみて下さい。初めて出会う人を「よそ者じゃない」とイメージすることによって挨拶をすることができるようになると思います。
マタイによる福音書5:47の御言葉は「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
この御言葉は知っている人に挨拶をするのは、誰でもできます、しかし、あなた方は、出会うすべての人に挨拶をしなさい、と言う意味です。
挨拶をすると、非常に心が爽(さわ)やかになってきて、空の色まで奇麗に見えてきます。「ああ自分は受け入れられている、神様に愛されている」、その様な思いが実感として沸いてきます。
ありのままの自分がすべての人に愛されている、そのように思えることは、何と素晴らしいことでしょうか、是非皆さんにもお勧めいたします。
 
このような心の態度を身につけるために、皆さんにも駅前での個人接戦をお勧めしている訳です。ポスティングでも同じ訓練をすることができます。他にもあるかもしれませんが、もしありましたら、教えて下さい。
 
さて今日の聖書箇所では何と言っているでしょうか。フィリポは使徒言行録6:5に最初に出てくる人です。12弟子に代わって教会の運営や物資の分配の役目をする人が7人選ばれました。6:5 「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」とあります。
 
フィリポはエルサレムからガザへ向かう道でエチオピア人に出会いました。そして彼が聖書を読んでいるのを知って「読んでいることがお分かりになりますか」(8:30)と声を掛けました。フィリポは私は彼にとって「よそものじゃない」、彼は私にとって「よそものじゃない」、仲間だ、同志だと言う心の態度から、エチオピア人に気軽に普段着のまま、そうすることが当たり前という思いで声を掛けました。
その最初の声掛けを切っ掛けにエチオピア人はバプテスマ受けることができました。
ヨハネによる福音書4章ではイエス様は水をくみに来たサマリアの婦人に「水を飲ませてください」(4:7)と声を掛けました。その声掛けを切っ掛けに、その婦人はイエス・キリストを信じ救いに与ることが出来ました。
 
イエス様も、フィリポにも共通している心の態度は、初めて出会う人々を「よそ者ではない」、仲間だ、同志だと考えていると言うことです。また彼らにとって私は「よそ者ではない」受け入れられている、必要とされている、愛されている、と言う心の態度を持っていました。
黙示録3:20 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあります。
 私たちはどのような心の態度を持って人々に接するかと言うことが私たちが目ざしている「愛の輪を広めよう」と言うことに大きく影響を与えます。私たちが人々に対して心を開いているならば、人々も私たちを受け入れてくれます。互いに心を開いて共に受け入れ合うことが出来ます。しかし、心を閉ざしているならば、何の成果も見ることはできません。
また、私たち自身の心も世界に羽ばたくことができません。
 
今日は、私はあの人にとって「よそ者じゃない」と言うことについて学びました。
パワーフォーリビングでは次のように言ってます。
「自分自身をじっくり省みたダビデ王は、いつの時代も変わらない次のような真理を告白しました。「わたしは咎(とが)のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩編51:7)。これは力強い告白であり、深遠な真理です。言い換えればダビデは、自分自身をじっくり吟味した結果、「私では力不足だ」と告白したのです。この概念を図解するとしたら、「私はダメだ」、「あなたはダメだ」、「私たちはダメだ」、「あの人たちはダメだ」、「それじゃダメだ」という吹き出しが付いた線があちらこちらに向かう図になるでしょう。さて、あなたが生まれた時から「罪人」でなければ、これらの吹き出しは「私は大丈夫だ」、「あなたは大丈夫だ」、「私たちはみんな大丈夫だ」、「すべてがすばらしい」とそれぞれ書き換えることがいるでしょう。」とあります。
私たちはありのままの自分が受け入れられているお互いです。私たちはすべての人に受け入れられています。ですからすべての人を受け入れてまいりましょう。
 
その時に、私たちは次のように言うことが出来ます。
「私は大丈夫だ」、「あなたは大丈夫だ」、「私たちはみんな大丈夫だ」、「すべてがすばらしい」。
 
 
 
 
<要約>いつも皆さんにお伝えしていることは物事を肯定的(positive)に考えなさい、否定的(negative)に考えてはいけません、と言うことでした。しかし、長い間否定的に物事を考える習慣が身に付いてしまっているとき、意識していないと、いつの間にか古い自分に戻ってしまっていることがあります。そのような中で与えられたイメージが「よそ者じゃない」と言うことです。よそ者と言う意味は、(その土地で生まれるか、その土地に住みなれているかではなく)よそから新たに来た者。他国者。(仲間はずれにする)と言う意味がありますが、これを反対にすると、迷惑なよそ者ではなく、同じ仲間同士です、と言うことです。初めて道で出会う人に、自分は彼にとって「よそ者じゃない」と言うイメージを持つことによってそれが当たり前として挨拶ができるようになります。今までは頭の中では人類は皆兄弟姉妹と考えていましたが、この言葉では目の前に現れた初めての人に挨拶をすることができませんでした。マタイによる福音書5:47の御言葉は「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」と言うことです。この御言葉の意味は知っている人に挨拶をするのは、誰でもできます、しかし、あなた方は出会うすべての人に挨拶をしなさい、と言うことです。挨拶をすると、非常に心が爽(さわ)やかになってきて、空の色まで奇麗に見えてきます。「ああ自分は受け入れられている、神様に愛されている」、「世界に繋がっている」、その様な思いが実感として沸いてきます。
 
フィリポはエルサレムからガザへ向かう道でエチオピア人に出会いました。フィリポは私は彼にとって「よそ者じゃない」、仲間だ、同志だと言う心の態度から、気軽に普段着のまま、そうすることが当たり前という思いで声を掛けました。その最初の声掛けを切っ掛けにエチオピア人はバプテスマを受けることができました。ヨハネによる福音書4章ではイエス様は水をくみに来たサマリアの女性婦人に「水を飲ませてください」(4:7)と声を掛けました。その声掛けを切っ掛けに、その婦人は救いに与ることが出来ました。私たちの心の態度は、初めて出会う人々に対して彼にとって私は「よそ者じゃない」、仲間だ、同志だ、受け入れられている、必要とされている、と考えると言うことです。その様な肯定的な心の態度は「私は大丈夫だ」、「あなたは大丈夫だ」、「私たちはみんな大丈夫だ」、「すべてがすばらしい」という思いに私たちを包みます。