イザヤ書
43:21〜28
43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。43:22 しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。43:23 あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。43:24 あなたは香水萱(こうすいがや)をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。43:26 わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。43:27 あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。43:28 それゆえ、わたしは聖所の司(つかさ)らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱(おじょく)にまかせた。
イザヤは南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活動した預言者です。預言者とは神の言葉を伝える者で、伝えるというよりかは、警告する者という方が当たっています。
イザヤはBC740年からBC680年まで約60年活動したとされています。その後100年頃には南王国ユダはバビロンに捕囚として捉え移される事になります。
イスラエルはダビデ王によって神による王国としてスタートしましたが、近隣諸国との妥協による安泰を計るために、神への忠誠を捨て、異教の宗教や、文化を取り入れたために、神による王国からは遠く離れたものになってしまいます。
その理由は異にしますが、アメリカ合衆国は聖書を土台として国が興されましたが、世俗化が進んでいるという点は似ていると言えます。日本はと言えば、まだ聖書を土台とするところまでも至っていないという現状です。
さてイザヤはそのような南王国ユダに対して度々警告を発している訳ですが、今日のテキストの43章では裁きと共に赦しが記されています。
「43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」
私たちは神によって造られ保たれている者です。故に神様は私たちに「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」と言っています。私たちは命のある限り神様への感謝を現す責任があります。
兎角不満を言いがちとは思いますが、それは真(まこと)に不信仰であると言う事を覚えなければなりません。私たちは朝起きたならば、新しい朝の故に感謝を捧げ、期待を持って一日をスタートさせなければなりません。感謝と希望と歓喜によって一日を過ごす必要があります。
「43:22 しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。43:23 あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。」
南王国ユダは神への感謝を現すことが出来ていないだけではなく、神の言葉が重荷となっていたと言う事です。神の言葉は何と私たちの慰めでしょうか。世界の王の王、主の主であられる方が、被造物の私たちに対して愛の言葉と招きの言葉を綴っています。
私たちは勿論試練に遭う事がありますが、聖書は何と語っているでしょうか。ヤコブの手紙「1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」。試練に対しては忍耐しなさいと言っています。そして、それによって私たちは「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」と教えてくださっています。
私たちは神の言葉の範囲の中で生きる時に神様の祝福の内を歩む事が出来ます。主の御名を誉め称えて行きましょう。
43:23
「わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。43:24 あなたは香水萱(がや)をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。」
神様は繰り返し人々に祝福を注いでいましたが、それでも感謝は帰って来ませんでした。
43:24
「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。」
神様は人々の不正や、虐げ、不道徳などによって心を痛め、頭を抱えるほどであった訳です。実際私たちの精神的な苦痛というものは、肉体的な苦痛を越えるものがあると思います。
繰り返しになりますが、悪人への反感、恨み、非難、これらのもので心が一杯になると、もう先に進む事が出来なくなって行きます。
この解決方法には何があるのでしょうか。
答えは25節に記されています。
「43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」
そうです。私たちが感謝と希望と歓喜によって生きるためには人々の罪を「思い出さない」と言う事です。つまり人々の罪を「忘れる」と言う事です。その人の前に立っても過去の罪を思い出さないようにいたします。目に浮かんできたならば、直ぐに別なものを思い浮かべるようにして、忘れてしまう。もう考える事は止めてしまう、と言う事です。
神様が私たちの罪を「思い出さないことにする。」と言ってくださっているのですから私たちも人々の罪を「思い出さないことにする。」と言う事が必要なのではないでしょうか。
その時にこそ、初めに記されていました、43:21の御言葉を実行する事が出来ます。
「43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」
つまり、感謝という事です。
私たちは赦されているので人を赦し、人を赦す事によって私たちも赦される身分である事を思い起こさなければなりません。
聖書は次のように言っています。
マタイ「5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」」
「5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
私たちは赦す事によって、感謝をする事が出来るようになります。また、感謝のあるところに希望が見えてきます。そして希望がある時に私たちは歓喜に溢れる事が出来るという事を覚えたいと思います。
<要約>イスラエルはダビデ王によって神による王国としてスタートしましたが、近隣諸国との妥協による安泰を計るために、神への忠誠を捨て、異教の宗教や文化を取り入れたために、神による王国からは遠く離れたものになってしまいます。イザヤはそのような南王国ユダに対して度々警告を発してます。43章では裁きと共に赦しが記されています。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(43:21)。私たちは神によって造られ保たれている者です。故に神様は私たちに「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」と言っています。私たちは命のある限り神様への感謝を現す責任があります。兎角不満を言いがちかと思いますが、それは真に不信仰であると言う事を覚えなければなりません。私たちは朝起きたならば、新しい朝の故に感謝を捧げ、期待を持って一日をスタートさせなければなりません。感謝と希望と歓喜によって一日を過ごすべきです。「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず、イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした」(43:22 )。南王国ユダは神への感謝を現すことが出来ていないだけではなく、神の言葉が重荷となっていたと言う事です。神の言葉は何と私たちの慰めでしょうか。世界の王の王、主の主であられる方が、被造物の私たちに対して愛の言葉と招きの言葉とを綴っています。「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた」(43:24)。神様は人々の不正や、虐げ、不道徳などのために心を痛め、頭を抱えるほどででした。私たちの場合、精神的な苦痛というものは、肉体的苦痛を越えるものがあると思います。
繰り返しになりますが、悪人への反感、恨み、非難、これらのもので心が一杯になると、もう先に進む事が出来なくなって行きます。この解決方法には何があるのでしょうか。答えは25節に記されています。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」(43:25 )。そうです。私たちが感謝と希望と歓喜によって生きるためには人々の罪を「思い出さない」と言う事です。つまり人々の罪を「忘れる」と言う事です。その人の前に立っても過去の罪を思い出さないようにいたします。目に浮かんできたならば、直ぐに別なものを思い浮かべるようにして、忘れてしまう。もう考える事は止めてしまう、と言う事です。神様が私たちの罪を「思い出さないことにする」と言ってくださっているのですから私たちも人々の罪を「思い出さないことにする」と言う事が必要です。私たちは赦されているので人を赦し、人を赦す事によって私たちも赦される身分である事を思い起こさなければなりません。その時にこそ、感謝と希望と歓喜によって生きる者と変えられていきます。