マタイによる福音書27:39〜43
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
ペトロの手紙T2:23でキリストについて「ののしられてもののしり返さず」、と表現しています。しかし、
マタイ27:42 では人々は「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。」と、このようにキリストをののしりました。
勿論イエス様は、自分を救う事も出来ます。宇宙の造り主ですから。出来ない事は何もありません。
しかし、そうではなく、多くの人々の、怒り、憎悪を、一身に受け入れました。
ストレスと言うのは移動していきます。このピンポン球のようなものです。誰かにこのピンポン球を投げてやれば、ストレスは無くなります。しかし、受け取った方が今度はそのストレスに苦しむ事になります。
ですから早く誰かに投げてしまわなければなりません。
このピンポン球は怒りという形で移動するものです。
1.
キリストをののしった人々は多くの抑圧の中にありましたが、キリストをののしったことによってかなり、そのストレスが解消されました。
しかし、それによって平安が与えられた時に、人々はキリストの愛を理解するでしょう。私たちの怒りを反論することなく、ありのまま全部を受け取ってくれたという事が分かるはずです。
その時に人々は次のように言う事でしょう。使徒言行録の記事と同じ事が起こります。使徒「2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
2.
イエス・キリストはフライ板のようにののしり返したのではなく、豆腐のように人々の怒り、憎悪を受け取られました。
イエス様は人々の憎悪をありのまま受け入れただけではなく、私たちをも受け入れてくださいました。私たちは多くの失敗をします。
クリスチャンになっても、まだまだ訓練しなければならない事があります。まだまだ十分ではないという事です。しかし、イエス様はその様な不完全な私をも「ありのまま受け入れ」てくださっています。
ですから人から批判された時に、必死になってそれを打ち消そうとしなくても良い訳です。「あなたは悪い人間ですね」と言われても、「はい、済みません。その通りです」と答えればよい訳です。イエス様は悪い人間である、そのままを受け入れてくださっていますから、「いやー、そんな事はありません」と頑張らなくてもよい訳です。
人から批判されるような事はあってはならないと、アンテナを張っている状態は私たちを非常なストレスの中に追い込みます。
勿論愛の人になるよう努力がなされて行く訳ですが、それは3歩進んで2歩下がる状態で言い訳です。その中で失敗も沢山あります。肩の力を抜いて、ありのままの自分を表していきたいと思います。
理想的な自分で居なければならないと、バリヤを張った状態で居ると、返って自分の本当の状態が分からずに成長する事が出来ません。
せっかくの人々の良い意見もバリヤを張った状態では受け取る事が出来ません。私には関係有りません「私をそんな人間だと思っているのですか」とせっかくの忠告する人を批判して分裂してしまうだけです。
私たちは神様から「ありのままを受け入れられ」ていますからありのままの自分で過ごしていきましょう。
3.
イエス様は私たちの先生です。しかも、唯一の先生です。
私たちの手本はイエス・キリストのみです。
マタイ5:39「悪人に手向かってはならない」とは、黙って悪人を心の中で恨むのではなく、悪人に対して自分を弁護しないで、ののしられることを受け入れる事です。そしてごめんなさいと言ってその人のために祈る事です。
人々の怒りは、その人が多くの傷を受けているからに他なりません。私たちはその癒しのために祈るものでありたいと思います。
私たちは誤解を解こうとしてはなりません。悪人呼ばわりされるままにしていましょう。
クリスチャンでさえうっかり人を傷つけてしまうのに、ノンクリスチャンが人を傷つけるのはごく普通の事です。受け入れて行きましょう。
私たちは神の性格を持って、人々の批判に甘んじ、人々の救いのために祈るものでありたいと思います。
アガペーの愛は、フライパンではなく、より豆腐に例える事が出来ます。
アガペーの愛は自分の好みに関係なく愛するという事と、人々の攻撃をそのまま受け止める事、と言う事が出来ます。
ペトロの手紙T
2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅(おど)さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
<要約>1. キリストは人々を「ありのまま受け入れられました」。ペトロの手紙T2:23でキリストについて「ののしられてもののしり返さず」、と表現しています。イエス様は十字架の刑に甘んじ多くの人々の、怒り、憎悪を、一身に受け入れられました。ストレスと言うのは怒りという形で移動していきます。これをフライパンの様な心で直ぐに誰かに打ち返すか、豆腐の様な心で包んでしまうかによって結果は大きく異なってきます。イエス・キリストは後者をもって神の愛を現されました。
2. 私たち自身も「ありのまま受け入れられました」。イエス様は人々の憎悪をありのまま受け入れただけではなく、私たちをも受け入れてくださいました。聖書を読んだだけではまだ身になっていません。実地に訓練する必要があります。ですから私たちは多くの失敗をする者です。しかし、ありのままの自分が受け入れられているのですから人々からの批判を受け入れそれを成長の糧として行きましょう。
3. 私たちも人々を「ありのまま受け入れ」ましょう。イエス様は私たちの先生です。私たちの手本はイエス・キリストのみです。マタイ5:39「悪人に手向かってはならない」とは悪人に対して自分を弁護しないで、ののしられることを受け入れる事です。そしてごめんなさいと言ってその人のために祈る事です。人々の怒りは、その人が多くの傷を受けているからに他なりません。私たちはその癒しのために祈る者でありたいと思います。ペトロの手紙T2:24「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」