12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
私たちが生まれて来たのには目的がありました。神様は私たち一人一人に使命を与えています。その使命とは最終的には世界の改革者としての使命です。そしてその使命を実現するためには、まず自分自身が神の国に支配されなければならないと言う事です。
神の国に支配されるとはキリストの性質を身につけると言うことです。サンデー牧師は次のように述べています。「憎しみ、怒り、赦せない心は捨ててしまいなさい。クリスチャンには関係ないものです。テフロン加工された表面からするりとはがれるように、これらの悪い思いは私たちから離れていきます。もっとよいものに心を向けましょう。神の国に全力を注ぐことが私たちの食物、宝、人生なのです。」
イエス様は言いました。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」(マタイ18:8)
憎しみ、怒り、赦せない心とありましたが、
怒りを覚える第一の原因は、自分の誤りを指摘された時などに沸いてくる感情です。完全な愛は感情も支配します。イエス様は言いました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
愛とは反論をしないと言うことです。悪いと言われたら悪いままで居ることです。私たちの先生であるイエス様は次のように言われています。「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)
勝利が一夜にして手に入らないのと同じく、愛の人となることも一夜にして手に入りません。御言を繰り返し蓄え、実践していきます。「4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントT 13:4-8)
愛があれば、人生の問題への対処方法が変わります。感情を害しても、やり返すのではなく相手を赦せるようになります。自分自身に「私はキリストのように行動しているだろうか」と何度も尋ねてみましょう。地位や、クリスチャンになってからの長さも関係ありません。問題は、性質と人生がイエス・キリストを反映しているかどうかと言うことです。
イエス様の性質を身に帯びている人だけが自分のことをクリスチャンと呼ぶ権利があります。
人を愛しましょう。相手が誰であろうと、何をする人であろうと関係ありません。欠点があっても愛しましょう。無条件で愛しましょう。
神の愛は誰かを憎むことを許しません。恨みや怒りや憎しみを許しません。国を愛し、人を愛する心が国を変える力です。王の性質を身につけましょう。マタイ5:48「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
サンデー牧師は「悔改めとは、心と信念体系を必要に応じて何度でも変えることです。古いものを拒絶し 新しいものを取り入れるのです。」と言っています。
ローマの信徒への手紙12:2に「心を新たにして自分を変えていただき、」なさい、とあります。
自分自身を新しく創造してみては如何でしょうか。古い自分におさらばして、新しい自分を造っていきましょう。これは訓練なしに出来るものではありません。このような努力をする者に聖霊様は助けてくださいます。
世界の改革者となるために、自分自身が神の国に支配されるようにいたしましょう。
そして神の国の原則に教育と知識を取り入れましょう。
神様はその様な改革者を求めています。どうぞ、私を神様が望まれる人間にしてくださいと祈ってまいりましょう。
<要約>
世界の改革者に求められていることはキリストの性質を身につけることです。サンデー牧師は次のように述べています。「憎しみ、怒り、赦せない心は捨ててしまいなさい。クリスチャンには関係ないものです。テフロン加工された表面からするりとはがれるように、これらの悪い思いは私たちから離れていきます。もっとよいものに心を向けましょう。神の国に全力を注ぐことが私たちの食物、宝、人生なのです」。キリストの性質を身につけるとは愛の人になると言うことです。それも少しばかりの愛の人では十分ではありません。完全な愛の人になることが必要です。イエス様は言いました。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。」(マタイ18:8)。 「憎しみ、怒り、赦せない心は捨ててしまいなさい。クリスチャンには関係ないものです。」と言うことです。
怒りを覚える第一の原因は、自分の誤りを指摘された時などに沸いてくる感情です。完全な愛は感情も支配します。イエス様は言いました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)。 愛とは反論をしないと言うことです。悪いと言われたら悪いままで居ることです。私たちの先生であるイエス様は次のように言われています。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)。
愛があれば、人生の問題への対処方法が変わります。感情を害しても、やり返すのではなく相手を赦せるようになります。自分自身に「私はキリストのように行動しているだろうか」と何度も尋ねてみましょう。地位や、クリスチャンになってからの長さも関係ありません。問題は、性質と人生がイエス・キリストを反映しているかどうかと言うことです。
イエス様の性質を身に帯びている人だけが自分のことをクリスチャンと呼ぶ権利があります。人を愛しましょう。相手が誰であろうと、何をする人であろうと関係ありません。欠点があっても愛しましょう。無条件で愛しましょう。神の愛は誰かを憎むことを許しません。恨みや怒りや憎しみを許しません。サンデー牧師は「悔改めとは、心と信念体系を必要に応じて何度でも変えることです。古いものを拒絶し 新しいものを取り入れるのです。」と言っています。「心を新たにして自分を変えて」いきましょう。(ローマ12:2)。