ヨハネによる福音書13:31〜34
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
今日は愛について、聖書全体から見ていきます。
愛について学び、愛の人となることが出来れば、私たちクリスチャンは小さな存在というレッテルを返上することが出来ます。
現在チャーチシフト教会革命を学んでいますが、そこで宣教の突破口という章があります。そこで述べられていることは、より小さい者に出で行きなさいと言うことでした。
マタイによる福音書25:40に「最も小さい者の一人」について述べられています。宣教の突破口は「最も小さい者の一人」から始まると言っています。
聖書が初めに愛について述べている所は、マタイによる福音書5:7です。「憐れみ深い人々は、幸いである」 、憐れみを国語辞典では「かわいそうだと思う心。同情を引くこと。」と言っています。同情については「他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように親身(しんみ)になって共に感じること。かわいそうに思うこと。あわれみ。おもいやり。」とあります。ここで愛とは「人の苦悩を、自分のことのように思い力になりたいと思う事」と言うことが出来ます。
つい先日その様な出来事に出会いましたが、実際同情を示し、心配しています。と伝える事しかできませんでしたが、具体的に出来る事と言うのはあまり無いのですが、同じ思いになると言うことが憐れみ深いと言うことであり、愛であると思います。
次はマタイによる福音書5:42です。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」とあります。
愛と言った場合、私たちが躊躇(ちゅうちょ)するのは犠牲を求められるという点だと思います。「最も小さい者」について述べられている、マタイによる福音書25章では、憐れみ深い人たちに次のように言っています。25:35「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」とあります。
私たちには金銭的な支援ができる人はそうは居ないと思いますが、共感することと、時間を注ぐことはできると思います。
私が候補生の時にキリスト教書店の近くで、若者に出会いましたが、それは私が制服を着ていたからですが、しかし、それが切っ掛けで、彼は士官学校に入学しました。しかし、何らかの事情で中途退学のようなことになってしまったことがありました。
私は心配でならず、とにかく彼の元に訪ねていったことがあります。結局何も出来なかったのですが、ただ心配していると言うことを伝えただけでした。
しかし、それ以来今でも連絡を取り合う仲で、互いに励まし合う関係になっています。
人は少なくとも自分を心配してくれる人が居ると言うことによって、その人の力になることが出来ると思います。そう言う面で愛を現すことができると思います。
次にマタイによる福音書5:14「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵と言っても幅があって、反目している関係からタイプが違うと思う関係まであります。しかし、大きく分けて人は自分の側に入る人と、相反する人との2つに分けられます。しかし、イエス様はここで全ての人を自分の側に入る人としなさいと言っています。人を自分の好き嫌いで分けないようにと言うことです。それは自分に失礼なことをした人でも赦して愛の対象である隣人にしなさいと言うことです。
次にマタイによる福音書18:12「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この所で分かることは、神様は全ての人を愛されていますが、特に関心を持っておられる所は、「小さい者」と言われる人々であると言うことです。「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」(13)とあるように、100人いたならばその中の一番小さい者、困難な中にある人、或いは神様から一番離れている人、に神様は注目されていると言うことです。
神様から離れている人というのは罪人と言うことですが、ルカによる福音書の5:7では「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と言っているように、神様から一番遠くにいる罪人を神様は因り深く迷っている人として心配しておられると言うことです。
次にマタイによる福音書22:39「隣人を自分のように愛しなさい。」。ゴールデンルールとは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカ6:31)ですが、ここでは非常に表現が近づいています。「人にしてもらいたいと思うこと」と「自分を愛するように」とほぼ同じ意味です。
その対象は「隣人」となっています。私たちには沢山の隣人が居ます。目の前の人も隣人ですし、通りすがりの人も隣人です。その人々を「自分のように愛」することが出来るでしょうか。
特に今日のテーマは「一番小さい者、困難な中にある人」、或いは「神様から一番遠くにいる罪人」を自分のように愛することができるでしょうか。
さて今日のテーマは「互いに愛し合いなさい」ですが、私たちは何故愛し合う必要があるのでしょうか。進化論の世界では自然淘汰、自然選択が許されます。つまり環境に適合する者が生き残り、そうでない者はその道が閉ざされてしまいます。
しかし、神の形に造られている人間は別です。イエス様は病人を癒し、障害者を自立させ、罪人の家に泊まりました。イエス様は人々の何に目を留められているのでしょうか。それは神様が注がれた命です。
病人も、障害者も、罪人も、通りすがりの人も誰もが持っているものは神様から与えられた命です。この命が大事である訳です。人は何かができるので尊重されるのではありません。これは注意をしたいと思います。何かが出来る人は尊重され、そうでない人は相手にされないと言うことがあります。
人は皆、神様から与えられた命を持っているが故に尊重されるべきです。決して人に点数を付けたり、順位を付けてはなりません。
命があるのと無いのとでは天地ほどに違いがありますが、それ以外の違いは全て50歩100歩です。僅かな取るに足りない違いです。人はその命の故に、神の権威によってその尊厳が与えられています。
ヨハネ13:34 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
これがイエス様からの掟です。
そして、宣教の突破口として「最も小さい者の一人」に目を向けていきたいと思います。
ブース大将も言いました。「因り困難な人々に行け」、彼らが持っている命が救いを経験することが出来るように、私たちは愛を注いでいきましょう。
<要約>私たちクリスチャンが愛について学び、愛の人となることが出来れば、クリスチャンは小さな存在、というレッテルを返上することが出来ます。マタイ5:7には「憐れみ深い人々は、幸いである」とあります。それは「人の苦悩を、自分のことのように思い力になりたいと思う事」です。人は物質的な助けが出来なくても同じ思いになると言うことができます。マタイ5:42には「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」とあります。ここでも犠牲が求められていますがマタイ25:35では次のように言われています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。私たちは金銭的な支援ができなくとも共感することと、時間を注ぐことが出来ます。人は自分を心配してくれる人が居ることが分かると力を得ることが出来ます。そう言う面で愛を現すことができます。
マタイ5:14では「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵と言っても幅がありますが、ここでは敵と言われる人も味方として愛しなさいと言っています。マタイ18:13では「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」とあります。ここでは神様は因り困難な中にある人、神様から遠く離れている人を心配しておられることが分かります。マタイ22:39では「隣人を自分のように愛しなさい。」とあります。自分のようにとは、疲れていても自分のことは実行しますが、それを隣人にしなさいと言っています。さて私たちは何故愛し合う必要があるのでしょうか。それは隣人が神様から与えられた命を持っているからです。命があるのと無いのとでは天地ほどに違いがありますが、それ以外の違いは全て50歩100歩で取るに足りない僅かな違いです。人はその命の故に尊重されなければなりません。「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)これがイエス様からの掟です。