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2006.9.25
 
わたしは誰を恐れよう
      詩編 118編6〜7
118:6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。
118:7 主はわたしの味方、助けとなって/わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 
私は20歳の時に救世軍に導かれました。救世軍に来る前は、ハイになる時と落ち込んでいる時と交互にやってくるような生活でした。救世軍に来るようになって信仰を理解するようになって来るとだんだん安定して来たと思っています。
 
 そして信仰による強さも頂いた気がします。その一つのエピソードは、現場監督をしていた時のことですが、都市ガスの会社に工事を依頼していたのですが、いつの間にか"反社会的集団"の会社とすり替わっていました。何故それが分かったのかは忘れましたが、とにかく、私がその会社に電話して、「あなたとは取引出来ませんから」と言いましたら、帰って来た返事は「俺は普通の人間じゃない、これからそっちに行くから」と言うものでした。
 私は殺されるかもしれないと思いましたが、その頃には「死んでも天国に行くばかり」と言う信仰を持っていましたので、「どうぞいつでも来て下さい。」と言って電話を切りました。結局その人は来なかったので、まだ私は生きています。
 「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。」 神が味方であるならば、神様が愛して止まない正義を、命を投げ出してでも選び取る勇気を頂くことが出来ます。
 
 
 
 
 勇気にはもう一つあります。それは「ごめんなさい」と言う勇気です。
最近酒酔い運転で、ひき逃げ事故のニュースを耳にしています。これは、その罪の重さ、責任の重さ、に恐ろしくなって逃げてしまっている訳です。
 
 
 罪を犯して、私達が失うものは、勿論その罪の償いを負うと言うことに加えて、第一に家族や友人、知人の信頼を失うと言うことです。第二には仕事や財産、地位や名誉を失うと言うことです。これらが罪を認める事の恐ろしさとなっています。
 
 しかし、その罪を認めて「ごめんなさい」と言うならば、自らの正義を正すこととなり、不安と恐れの日々から、純真で真実な日々へと変えられます。
 愛の神様を信じるならば、全てを失うことを恐れず、自らの罪を、そのまま明け渡すことが出来ます。その時に真の赦しと平安を頂くことが出来ます。
 「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。」 神を信頼し、人を恐れない者のみが、自らの罪を認め「ごめんなさい」と言う事が出来ます。そしてそのような社会にこそ、真の平和が築かれていきます。
 
今日も主を信頼しつつ、人の正義と、自らの正義を選びつつ真実な歩みを続けていきましょう。