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2006.10.5 (2006.9.11)
 
   神様からの使命
ヨハネによる福音書 9章2〜3
 
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 
「私は勝利の人生を、自ら勝ち取った。」と言う人がおられるでしょうか。
しかし、努力しても報われない人が居ると言うのも事実です。
そうだとするならば、努力が報いられた、と言う場合、それは、恵みであったと考えることができます。
 
私達は、いろいろな困難や、また災害などに遭う可能性を、ゼロと言うことはできません。実際に、そのような境遇の中にある人々がおられます。
 
 
 
 
そのような人達の中には、なぜ私だけが、なぜ私なの、と言う疑問を持つ方がおられます。そのような時に、それは、罰(ばち)が当たったのだ。悪いことをした報いを受けた。自業自得だ。と言う考えをする人が居ます。
 2000年前のイスラエルでも同じように考える人達がいました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」そのように考えました。
 
神様は、なぜ苦難に遭ったかという問いには答えていません。
 一つの答えとしては、神様は、自ら作った、自然の法則を尊重されると言う事は間違いないと思います。もう一つは、苦難や、困難は、人々に忍耐力を増し、成長させるとも言っています。しかし、なお、「なぜ私なの」と言う問いには答えていません。
 しかし、確かな答えを今日のところで教えています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」
 
 
 神様は、どのような境遇の中にも、恵みを注がれています。努力している人にも、していない人にも、苦難を受けている人にも、受けていない人にも。そして確実に言えることは、どのような境遇の中にある人にも、それぞれ神様からの使命が与えられている、と言う事です。
 
 
筆をくわえて絵と詩を書いている星野富弘さんは、体育教師になって間もない時に飛び箱の事故で頸椎 (けいつい)を損傷し手足の自由を失いました。しかし、彼はキリストの救いを受け、その絵と詩によって人々を励まし、勇気を与えています。現在では美術館も作られ、多くの人々が訪れています。
 
 
 
私達がどのような境遇にあるとしても、私にしかできない神様からの使命が与えられています。
今日も主に感謝しつつ、喜びをもって前進しましょう。