マタイによる福音書 6:22〜23
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
皆さんは輝いた目、あるいは透き通った目を見たことがあるでしょうか。赤ちゃんの目や、幼児の目は、その輝きを持っていると思います。もう一つのグループは動物の目は澄んだ目をしていると思います。私は農家で育ちましたので同じ屋根の下に牛が3、4頭飼われていましたので、牛の目をじっくり見ることがありました。それは大きく透き通っていて、鏡のように覗いた私の顔が写っていました。
今私は、また、皆さんにもお勧めしているのですがガチョウからガンに成長しましょうと言うことに努めています。
一つには猫背を治すことと、歩く時の姿勢を直すことです。これを治すのは簡単ではありません。長い間の習慣になっているものを、変更するためには常に意識して、修正をすると言うことを心がけなければなりません。
そしてつい最近というか、今日から次の目標が与えられました。それは透き通った目、輝いた目になると言う目標です。
聖書が教える御言は次のように言っています。マタイによる福音書6:22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、:23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
聖書は「目が澄んでいれば全身が明るい」と言っていますが、では目が澄んでいなければ、その心の中に暗い部分が存在すると言うことを現していると言う事になります。これはクリスチャンにとって大問題です。ありのままの自分を現しましょうとの信仰目標も掲げていますが、まだまだ課題が残っていると言えます。
ルカによる福音書11:34では次のように言っています。「11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
第一にイエス様が薦めている点は「あなたの目は澄んでる必要があります」と言うことです。「11:34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」。イエス様はあなたには暗い部分があってはなりません。それを取り除きなさいと言っています。
さて、どうして動物や幼子の目は澄んでいるのでしょうか。最近の猫はネズミを捕(と)って食べてしまったというような所を見たことがありませんが、例えばネズミを捕(と)って食べてしまったとしても、猫は悪いことをしてしまったとか、可哀相なことをしちゃったななどとは思わないと思います。猫や動物は本能のままに行動することが許されていますので、その心はいつも純粋で、その純粋さがその目の輝きに現れていると言うことと思います。
また、幼子もまだ人間としての善悪を十分には、わきまえていないので心の思いは純粋であると言うことだと思います。つまり、澄んだ目が失われる原因は、一つには二心に有ると言うことです。
マタイによる福音書6:24には次のようにあります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」。
イエス様はあなたは神を第一とするのですか、それとも地上のことを第一とするのですか、どちらかにしなければなりませんよ、と言っている訳です。
ところがどっちつかずの、二心と言うものがある訳です。勿論信仰に入る決心をするまではどうしようかと考え中なのでやむを得ない訳ですが、十分に理解している者が二心であっては成らない訳です。
もう一つの二心は罪との同居と言うことです。ローマの信徒への手紙7:13〜23に記されています。「7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」
少し難しく書いてありますが、要するに人は動物と違って本能のままに生きることは許されていなくて、神の国の法則によって生きる必要があるのですが、どうしたら神の国の法則に従って生きるようになれるでしょうか、と課題を示しています。答えは勿論、イエス様に自分を明け渡すと言うことです。これによってすべての重荷から解放されていきます。
さて澄んだ目を失わせている第二の点ですが、それは不安と言うことです。不安や、心配、これが私たちの、本来は透き通った輝く目をしていたのに、それを曇らせてしまっている原因です。イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とルカ18:17で言っています。子供は親を100%信頼しています。ですから幼子には不安や心配事はありません。親への信頼が目の輝きとなっている訳です。私たちも幼子が親を信頼するように神様を信頼しなければなりません。
イエス様はこれについても繰り返し教えています。マタイによる福音書6:25〜34に記されています。少し長くなりますが「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
不安の第一の課題は人間関係ではないでしょうか。これについても神様にお任せしたいと思います。最善を尽くし心を開いて、敬意をもって接しているのであれば、それ以上責めることは出来ません。神様が必ず真の平和を実現してくださいます。信頼してまいりましょう。
私たちは聖潔の世界に入ることと神様への信頼による心配しない人生によって澄んだ目を取り戻すことが出来ます。エメラルドという宝石は大変愛好される宝石ですが澄んだ目はそれらの宝石以上に価値あるものです。
それは最初の人間アダムとエバが持っていた輝きです。
私たちは一時的に、清くなるだけではなく、継続した聖さと信頼とを現してまいりましょう。
イエス・キリストの故にこのことが実現できる時代でありますことを感謝したいと思います。
<要約>
私の目標はガチョウからガンに成長しましょうと言うことです。つまり元々の権威、祝福を取り戻すと言うことです。私の目標は姿勢を直すことと健康を高めると言うことでしたが、更に「輝いた目を取り戻す」ことを始めました。聖書には次のようにあります「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6:22-23)。目が濁っていれば、それは心の中に暗い部分が存在すると言うことを現しています。これはクリスチャンにとって大問題です。なんとしても輝いた目を取り戻さなければなりません。ルカ11:34-36では「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。イエス様が薦めている第一の点は「あなたの目は澄んでる必要があります」、「あなたには暗い部分があってはなりません。それを取り除きなさい」と言っています。
動物や幼子の目が澄んでいるのはなぜでしょうか。動物は本能のままに行動することが許されているので、その心はいつも純粋であり、幼子もまだ善悪を十分には理解していないので一つ思いであり純粋であると言うことです。その心の純粋さが目の輝きとなっています。つまり、澄んだ目が失われる原因は、良心の呵責などの二心に有ると言う事です。信仰についてはマタイ6:24に「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言っています。ローマ7:19で「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と心が罪によって相争っていることを指摘しています。澄んだ目を失わせている第二の点は不安や心配です。
ルカ18:17では「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言っています。子供は親を100%信頼しています。ですから子供には不安や心配事はありません。そのように私たちも子供が親を信頼するように神様を信頼し心配から解放されなければなりません。私たちが「輝いた目を取り戻す」ためには、イエス様に自分の主導権を明け渡すとの聖潔に入る必要があります。また、神様へのまったき信頼をする信仰が必要です。更に未来への期待が目を輝かすものとなります。