ヨハネによる福音書 3:31
3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」
引き続き、私したちには約束の地が与えられていると言うことについて学んでいきます。約束の地が見あたりませんという人が居るかもしれませんが、そう言う人でも少なくとも家族や友人知人がおられると思います。そこにまず神の国をもたらすことが出来ます。
もしかすると約束の地を治めることについて、これは「自分にとって重荷だなー」と感じるかもしれません。しかし、そのように考える必要は全くありません。
イエス・キリストに従って生きる、これが約束の地を治めることになるからです。より優れた原則によって生き、より優れた原則によって治める、これだけです。
これは神様を喜ばせるのではなく、自分自身が恵まれることである訳です。
この世の原則は「支配、権力、憎悪、操作、分派、脅迫、報復、貪欲、わがまま」、です。これらによって世の中は動いています。ですから問題が生じてきます。これらはやがて破滅する権力構造の法則です。
人々は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という言葉の意味を理解することが出来ません。人々は劣った原則に縛られているので、劣った結果しか出せないで居ます。
人は人を憎む時、自分自身を破壊していきます。人を操(あやつ)れば、自分自身に死を招きます。それは私たちのからだと精神が創造された目的に反しているからです。
しかし、神の国の原則は「愛、平和、公正、憐れみ、善意、優しさ、一致、同情、そして聖さ」、です。
世界はこのより優れた原則によって治められる時にすべての問題が取り除かれます。神の国の原則は憐れみであり、善であり聖さです。ヤコブの手紙2:13に「憐れみは裁きに打ち勝つのです」とあります。また、ローマの信徒への手紙12:21には「善をもって悪に勝ちなさい」とあります。憐れみは復讐よりも優れています。誠実は不誠実よりも優れています。善は悪に勝利する唯一の武器です。
召された分野でこれらの原則を適用し、誰の目にも神の国が見えるようにしてください。誠意、誠実、真理、高潔、勤勉などを行動に表していきましょう。事業を築くことも、どう行動するかも、人生で神の国を建て上げることに直結しています。それは、正しい生き方の輝かしい実例です。世界が見習うべきモデルである訳です。
私たちに解決できないものはありません。私たちには神の国の原則を積極的に適用していくことが求められています。
クリスチャンはすべてにおいて第一人者であり、最高の存在であるべきです。徳の高い生き方が、どこからでも見えるような人でなければなりません。
ペトロの手紙T 2:15に「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」とあります。神の国の原則に従って生きることが勝利をもたらす唯一のものです。
ですから、神の国の原則にもとづいて生きることこそ私たちの最大の関心事と言えます。宗教的になることが信仰ではありません。この世を治める能力を回復することが信仰です。
イエス様は、ヨハネによる福音書14:9で「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言っています。
私たちもイエス様に倣って「イエス・キリストを知りたいのであれば私を見てください」と言えるようにしたいと思います。
体育館のような会館に移転しましょう、と進めていますが、この事が実現しなければこのビジョンは実現いたしません。「イエス・キリストを知りたいのであれば私を見てください」と言えるまでは神のビジョンは実現いたしません。
私たち自身がイエス・キリストを現しているのであれば人々はその魅力に引き寄せられてきます。
私たちは長い間、この世での一週間の汚れと傷と、疲れを癒し、聖める所が教会と思ってきました。しかし、そうではありませんでした。そうであったならば教会は逃れの場であって教会は大宣教命令を実現することは出来ず一部の人の癒しの場であり続けるでしょう。
これまでのクリスチャンライフの本当の姿は次のように説明できます。一週間に一日だけイエス様に繋がっていて残りの6日間は繋がっていない状態です。ですから6日の間の疲れを癒す日が必要となってしまっていました。しかし、イエス様はそのように言ったのではありませんでした。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)
イエス様は決して一週間に一日だけつながっていなさいとは言いませんでした。「わたしにつながって…いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言ったのです。
4節では「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と言われました。
ですから一週間に一日だけ繋がっているだけでは成長できないのは当然です。
私たちは小隊に行くという行為の意味を根本的に改めなければなりません。小隊は神の国の原則を学ぶ学校であると言うことです。残りの6日間にその学んだことを実践し、不十分な所をまた小隊で学ぶと言うことです。
何(いず)れにしても一週間の間イエス様に繋がったままですから、私たちは恵まれ通しで一週間を過ごすことが出来ます。何故ならイエス様のみ業を続けていたのですから、恵みに恵みを加えていたことになります。
神の国は私たちの献身の度合いに応じて効果を発揮します。
一週間イエス様に繋がったままで過ごすならばその効果はてき面です。
ヨハネ3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」イエス様は天の王国に座しておられますが、これは私たちの立場でもあります。
私たちは「天の王国に座している」のですからより優れた原則によって人々に接し、祝福を届けてまいりましょう。
<要約>
もしかすると約束の地を治めることについて、これは「自分にとって重荷だなー」と感じるかもしれません。しかし、そのように考える必要は全くありません。それはイエス・キリストに従って生きること、これだけです。より優れた原則によって生き、より優れた原則によって治める、これは神様を喜ばせるのではなく、自分自身が恵まれることである訳です。この世の原則は「支配、権力、憎悪、操作、分派、脅迫、報復、貪欲、わがまま」、です。これらはやがて破滅する権力構造の法則です。人々は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という言葉の意味を理解することが出来ません。
人々は劣った原則に縛られているので、劣った結果しか出せません。しかし、神の国の原則は「愛、平和、公正、憐れみ、善意、優しさ、一致、同情、そして聖さ」、です。世界はこのより優れた原則によって治められる時にすべての問題が取り除かれます。召された分野でこれらの原則を適用し、誰の目にも神の国が見えるようにしてください。誠意、誠実、真理、高潔、勤勉などを行動に表していきましょう。事業を築くことも、どう行動するかも、人生で神の国を建て上げることに直結しています。
クリスチャンはすべてにおいて第一人者であり、最高の存在であるべきです。徳の高い生き方が、どこからでも見えるような人でなければなりません。「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」(ペトロT2:15)とあります。神の国の原則に従って生きることが勝利をもたらす法則です。宗教的になることが信仰ではありません。この世を治める能力を回復することが信仰です。イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)と言いました。私たちも「イエス・キリストを知りたいのであれば私を見てください」と言えるようにしたいと思います。今まで私たちは一週間の疲れを癒す場が教会と思ってきましたが、それでは一日だけイエス様に繋がっているクリスチャンと言えます。そうではなく教会は神の国の原則を学ぶ学校であり教会を出た6日間をクリスチャンとして生きる働きの場、祝福の場としていきましょう。私たちはイエス様と同じく「天の王国に座している」(ヨハネ3:31)のですからより優れた原則によって人々に接し、祝福を届けてまいりましょう。