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「希望がすべてを完成させます」(110508ku)
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イザヤ書40:27〜31
40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。 40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。 40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
 
 
コリントの信徒への手紙T13章では13節に「13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とありますが、表面(ひょうめん)に現れるものでは愛が最も大いなるものということが出来ますが、しかし、これを実行するためには私たちには希望が必要です。
 信仰については、勿論、神は絶対者ですので、希望があっても無くても、神に従うことが信仰ですが、しかし、旧約時代に多くの人々が失敗し、挫折しています。神様はこのような弱さのある私たちのために、イエス・キリストを送ってくださり、復活の希望と、勝利の希望と、祝福の希望を与えてくださいました。
 勿論、旧約時代にも、出エジプト記20:6で 「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」との約束をくださいました。しかし、なお自らの弱さに勝つことはできませんでした。
イエス・キリストによる希望、これが私たちに愛を実行させ、神に従うという信仰を完成させるものです。
 
イエス・キリストにある希望とは、第一に救世軍の教理第11条に記されてるものです。即(すなわ)ち「霊魂の不滅」「身体の復活」「永遠の幸福」です。私たちはイエス・キリストの故に死の恐れから解放され、更にすべての恐れから解放されています。イエス・キリストがその証言をし、手本を示されました。弟子たちは復活のキリストの故に希望が与えられ、すべての働きに力が加えられました。
 
第二に、アブラハムへの約束が、イエス・キリストを通して今、私たちに与えられていると言うことです。即ち、ガラテヤの信徒への手紙3:29「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」とある通りです。
 アブラハムへの約束とは即ち、創世記15:5節「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」」とあります。
因(ちな)みに星の数を調べてみますと、肉眼で見える星の数は約5千個くらいだそうです。宇宙にある星の数としては私たちが属する天の川銀河にある星の数が2,000億個で宇宙全体では300ガイ(兆、京、ガイ)だそうですが、実際は数え切れないというのが正しい答えです。
 
アブラハムへの約束は創世記22:17では「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」とあります。また、26:4では「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」とあります。
 このアブラハムへの祝福の約束が今私たちに与えられています。これは大きな、非常に大きな希望です。
 
第三には神様が願っていることは、私たちが祝福を受け取ることだと言うことです。度々お伝えしているように、創世記1:1節の天地創造の目的は私たち人間の創造にあったと言うことです。ですから神様の願いは私たちが歓喜に溢れて生きることです、と言うことです。
また、イエス様自身も述べておられます。ヨハネによる福音書10:10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言うことです。
 
このような素晴らしい希望の故に、私たちは何を実行すれば良いのでしょうか。第一にサタンの誘惑に耳を貸さないと言うことです。ガラテヤの信徒への手紙5:24-25節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」とある通りです。
 また、愛するという点では、すべての人を愛し、すべての人を赦し、すべての人を受け入れると言うことです。神様からの素晴らしい希望を手にするために、私たちは神様の御言葉の範囲の中で生きると言うことを選んで行きます。神様の喜ばれないことに荷担するなら、私たちは希望を持ち続ける確信を得ることが出来なくなります。サタンの誘惑や嘘、偽りには一切ノーと言いましょう。
 
第二には、神様からの素晴らしい希望の故に、私たちは大きなパワーを頂くことが出来ます。今年の新年懇親会でどなたかが、良い奉仕をしているのですが、疲れてしまうことがあります。どうしたら良いでしょう。との呼びかけが成されました。すぐに応えて上げたかったのですが機会が得られませんでした。
その答えが今日の「希望」と言うことです。神のために行うすべての行動は、希望の故に倦(う)むことなく進めることが出来ます。ガラテヤの信徒への手紙6:9に「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」とあります。口語訳では「善を行うことに、うみ疲れてはならない。」となっています。
 私たちは神の希望の故に疲れることなく善を行うことが出来ます。
 
また、イエス様は「希望」というパワーに加えて、助け主というパワーをくださっています。使徒言行録1:4-5「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」
 そして8節では「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とあります。
 
私たちには約束の希望があり、加えて聖霊の助けが与えられています。この約束の聖霊が来られた時に、弟子たちによる世界宣教がスタートしました。それがペンテコステであり、聖霊降臨日として守られています。今年は6月12日になります。
 
最後に今日のテキストを読みましょう。
イザヤ書40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。
 私たちの助けである神は本当におられるのだろうか。とのつぶやきに答えています。
40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦(う)むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
 「主は、とこしえにいます神」「その英知は究めがたい。」。神様は確かにおられ、その全能をもって今も統治されています。
 
40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
 私たちは神による希望と、聖霊の助けによって、神のために行うすべての行動において、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」パワーを頂いています。
 
私たちはこの希望の故に自分自身を神様に明け渡し、不要な物を取り除いて頂き、神様の祝福の100%を現し、神の国の使命を担うために、有用な者として頂きましょう。
あなたには勝利が定まっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 第一に「最も大いなるものは、愛である」(コリント13:13)との愛を実行するためには、私たちには希望が必要です。信仰においても然り、イエス・キリストにおける復活の希望と、勝利の希望と、祝福の希望、これが私たちに愛を実行させ、神に従うという信仰を完成させるものです。イエス・キリストにある希望の第一は「霊魂の不滅」「身体の復活」「永遠の幸福」(教理第11条)です。私たちはイエス・キリストの故に死の恐れから解放され、更にすべての恐れから解放されています。イエス・キリストがその証言をし、手本を示されました。弟子たちは復活のキリストの故に希望が与えられ、すべての働きに力が加えられました。第二に、アブラハムへの約束が、イエス・キリストを通して今、私たちに与えられていると言うことです。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラテヤ3:29)とある通りです。アブラハムへの約束とは「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる』」(創世記15:5)との約束です。
 
第三には神様が願っていることは、私たちが祝福を受け取ることだと言うことです。創世記1:1の天地創造の目的は私たち人間の創造にあったと言うことです。ですから神様の願いは私たちが歓喜に溢れて生きることでであることが分かります。また、イエス様自身も述べておられます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)。この素晴らしい希望の故に更に実行すべきことは第一にサタンの誘惑に耳を貸さないと言うことです。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。