ペトロの手紙U1:3〜4
1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
今日も「聖潔に入る」というテーマについて学んでいきますが、題は「第三の世界へ」といたしました。それはこの世界は三つに分けることが出来ると言うことから来ているものです。第一は神から離れている世界。第二は神と共に歩んでいますがまだ罪が同居している世界。第三は罪から解放されている世界と言うことです。
「聖潔に入る」ということは、この第三の世界に入ることを意味しています。今まで神の国の実現について学んできましたが、神の国を実現するためには、その方法を学ぶと共に、それを実施して行く人そのものが更に重要であることは言うまでもありません。「第三の世界」の住人によって神の国は建て上げられていきます。
今まで聖潔に入っていると言うことをあまり証言していませんでしたが今回、サムエル・ブレングル著「聖潔をめざして」を読んで、それは小さな事ではないという認識をいたしました。神の国を実現させるためには、すべてのクリスチャンが第三の世界に入ることが必要です。罪と同居している中に実を結ぶことは出来ません。勿論第一の世界から比べるならば素晴らしい実を結んでいるのですが、ヨハネによる福音書の10:10で述べられているように豊かな実を結ぶためにはどうしても第三の世界に入る必要があります。
神の国を実現するためにはその方法を学ぶと共に、それを実現していく人、自身が神の国を実現していなければなりません。そして、この事は特別のことではなく、人は本来当然そうあるべきものであると言うことを覚えたいと思います。
私たち救世軍では兵士になるためにまずその準備期間として准兵士の期間を設けています。ですから当然、准兵士になったと言うことは然るべき期間の後に兵士になると言うことを意味しています。准兵士という地位は決して永続していて良いものではありません。
聖潔に入るというのもこれと同じです。人は回心し然るべき期間の後に信仰に入ります。そこが第二の世界です。つまり神と共に歩んでいますがまだ罪が同居している世界です。回心によって罪が聖められたと喜ぶ訳ですが、しかし、しばらく立つとまだ、自分で自分を制することが出来ない部分があることに気付く訳です。
サムエル・ブレングルは次のような例を記しています。つまり、自分の息子に次のようなことがあったと言います。救いを受けたと告白した息子が、ある時、母親に言いました。「ママ、ぼく、こんな風に生活するの、つかれちゃったよ」と。母親が「何があったの」と聞くと「ぼく、ずっとよい子でいたいんだ」、「でも、ママがぼくに言って何々しなさいと、言いつける、そしてぼくはそうするんだ。でもね、心の中でムカッとしちゃうんだよ」と言ったとのことです。
第二の世界の人は善良でいようとするのですが、それを快く思わない何かが自分の中にあることが分かってきます。つまり、第二の世界は完成された世界ではなくその上への準備期間であると言う事です。つまり第三の世界に入るための準備期間だと言うことです。イエス・キリストが提供してくださっている救いとはそんなに不安定で不完全なものではありません。
私たちが信仰に入ると言った場合、それは第三の世界に入ることを意味しています。第二の世界はあくまでも、第三の世界に入るための準備段階に過ぎません。
第二の世界は丁度旧約聖書の時代に当たります。第三の世界は新約聖書の時代に当たります。新約聖書の時代に神の御心は完成いたしました。
ペトロもペトロの手紙U1:3で次のように言っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」。イエス様は「命と信心とにかかわるすべてのものを」提供してくださっています。
そのすべてのものとは何でしょうか。それは4節にあります。即ち私たちが「神の本性にあずからせていただくようになる」と言うことです。
第二の世界についてはパウロが次のように言っています。
ガラテヤの信徒への手紙5:17
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。つまり良いと思う事をしないで、してはいけないと思う事をしてしまう、これが罪との同居状態です。
そこから救われる必要がありますが、それが第三の世界に入ると言う事です。第三の世界に入る必要性についてご理解頂けたと思います。
それではどのようにして第三の世界に入るか、つまり聖潔に入ればよいのでしょうか。それは、三つの世界について理解したならば第三の世界に入ることを熱望し、イエス様に求めて行くと言うことです。
そうすればイエス様は私たちに聖潔を与えてくださいます。その時から罪は私たちに何の力もなくなります。
聖潔はイエス様が与えてくださる、私たちへの恵であると言うことです。
エフェソの信徒への手紙でも聖潔は賜物として与えられると述べています。
「2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 ・・・2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。・・・2:22(そして)キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
私たちクリスチャンは皆「(神の)霊の働きによって神の住まいとなる」ことが出来るとパウロは言っています。
最後に聖潔を維持するために心がけておくべき事について述べておきます。その第一は聖潔に入ったならば後を振り向かないと言うことです。聖潔は私たちに希望を与えてくださいます。これを失うことのないように第三の世界に留まることを決意すべきです。
聖潔に入っても罪の根は存在しますが、それらを困難と思わずに退けることが出来るようになっています。つまり、ガラテヤの信徒への手紙「5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」、とある通りです。
罪が頭をもたげてきたらそれらを「十字架につけてしま」うだけの事です。
また聖潔は思いの完全であって、外に現れるものすべてが完全になると言うことではありません。これについては2つの点について述べられています。第一が私たちは土の器を持っていると言うことです。霊は聖められていても器は依然として不完全なものであるので失敗や誤解を与えてしまうことはあると言うことです。
このような場合にも謙遜に神によみせられていることで私たちは満足していなければなりません。
第二に人の目は必ずしも公平に見ているとは限らないと言うことです。人の目は思いこみや偏見を通している場合がありますから、良い行いも悪く言われる場合があります。このような場合にも謙遜に神によみせられていることで満足していなければなりません。
決して自分は聖められていないなどと言って第二の世界に戻ってしまうようなことのないようにしなければなりません。第三の世界に留まりますという意志によってその信仰が維持されます。その信仰に対して神様は私たちにその実現を賜物として与えてくださいます。
勿論、土の器も改善して行く努力が成されるべきであることは言うまでもありません。
エフェソの信徒への手紙「2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。」
ここで言う救いとは聖潔についても語られたものです。そしてその聖潔は神の賜物として与えられると言っています。ヤコブは「得られないのは、願い求めないからで」す(ヤコブ4:2)と言っています。
求めさえすれば神様は私たちの内に聖潔を実現してくださいます。感謝いたしましょう。神に栄光がありますように。
<要約>
私たちの世界は3つに分ける事が出来ます。第一は神から離れている世界。第二は神と共に歩んでいますがまだ罪が同居している世界。第三は罪から解放されている世界です。「聖潔に入る」ということは、この第三の世界に入ることを意味しています。神の国を実現するためには、その方法を学ぶと共に、それを実施して行く人そのものが神の国を実現している必要があります。そして、この事は特別のことではなく、当然そうあるべきものであると言うことです。私たち救世軍では兵士になるためにまずその準備期間として准兵士の期間を設けていますが、それと同じく第二の世界は第三の世界へ入るための準備期間です。第二の世界に留まることは本来あってはならないことです。第二の世界では罪というものがかくも手強い相手であることが認識されます。私たちが信仰に入ると言った場合、それは第三の世界に入ることを意味しています。第二の世界はあくまでも、第三の世界に入るための準備期間です。第二の世界は丁度旧約聖書の時代に当たります。第三の世界は新約聖書の時代に当たります。新約聖書の時代に神の御心は完成いたしました。ペトロもペトロの手紙U1:3で次のように言っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」。イエス様は「命と信心とにかかわるすべてのものを」提供してくださっています。
そのすべてのものとは何でしょうか。それは4節にあります。即ち私たちが「神の本性にあずからせていただくようになる」と言うことです。第二の世界についてはパウロが次のように言っています。ガラテヤの信徒への手紙5:17「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。ですからすべてのクリスチャンは第三の世界に入ることが当然であるということです。それではどのようにして第三の世界に入るのでしょうか、それは、三つの世界について理解したうえで第三の世界に入ることを熱望し、イエス様に求めて行くと言うことです(ある意味で決心することです)。そうすればイエス様は私たちに聖潔を与えてくださいます。その時から罪は私たちに何の力もなくなります。聖潔はイエス様が与えてくださる、私たちへの恵であると言うことです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ2:8)。ここで述べられている救いとは救いの完成つまり第三の世界に入ることを意味しています。