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「聖書の標準」(110703ku)
 
ヨハネの手紙T2:28〜3:6
3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
 
 
引き続き聖潔(きよめ)について学んでいきますが、今日は特に聖書の読み方について確認をしたいと思います。それは私自身、人が聖められるのは死を持って完成するものではないか、との不安定な確信の元に、聖書を読んでいたために、聖書のいたる所に聖潔について記されているのに、それは「あなたの罪は赦されます」との信仰の第一段階の救いについて述べられている、としか受け取っていなかったと言うことがありました。
この事についてはイエス様も指摘しています。マタイ13:14「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。」
 
つまり人は自分が理解した範囲のことしか、理解できないと言うことです。最初に聖書を読む時には何が書いてあるだろうかという思いで読みますので「ところどころ良いことが書いてあるな」位にしか読み取れません。しかし、聖書は神様からの自分への手紙であると信じて読むようになると、聖書は慰めの書となってきます。
 
 しかし、聖書は聖潔への招きの書、罪からの解放の書、全き救いへの招きの書として理解した時には、その事がいたる所に記されていると言うことに気付くことが出来ます。
 
今日の所のヨハネの手紙Tでも2:28「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」 との薦めは聖潔に留まりなさいとの薦めです。「そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ」 ます。とあります。思いが聖潔に留まっているならば、神に受け入れられるとの確信は確かなものとなっていきます。
 3:3「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」との御言葉も、罪の赦しではなく、聖潔の生活を続けなさいと言っていることが分かります。
 
3:5「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました」。過去の罪を赦すと同時に、今後の罪をも取り除いてくださることについて述べています。
 
聖書は読む人の心の態度によって、その理解度が違ってきます。サムエル・ブレングルは次のように指摘しています。「ほとんどの人々が神の御言葉を、自分の生活や経験の基準にして歩んでいない」ために、聖書が聖潔について語っていることに気付かないと言っています。
 
また、次のようにも言っています。人々は「自分の経験を聖書の標準にまで引き上げてくださるように神に訴えることをしないで、聖書を自分の経験のレベルに引き下げて説明してしまう。」 。
 ここで述べられていることは、聖潔は死によってしか完成しない、と言う思い込み、先入観があるために、御言葉をありのまま受け取ることが出来ていないと言うことです。
 
旧約聖書時代には確かに聖潔は必ずしも重視されていませんでした。旧約時代に重視されたものは神様に対する忠誠心、神様を如何に信頼しているかという点でした。アブラハムは妻サラの他にハガルによっても子を設けました。また、ゲラルに滞在した時にはサラを妹と偽りました。
ヤコブは兄をだまし、ダビデや、ソロモンも必ずしも高潔というのではありませんでした。
 
しかし、新約聖書時代になってイエス様の弟子となっている人々については、まったく新しい展開となっています。使徒言行録以降のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、パウロ、テモテやステファノ、彼らには道徳的な弱さなどを伺い見ることは出来ません。彼らに共通している点は聖潔に入っていると言うことです。彼らが記した手紙には繰り返し聖潔の生活を送るようにと勧められています。
 
 ガラテヤの信徒への手紙5:16「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。
肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
 
5:18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。5:19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」
 
パウロは繰り返し「霊の導きに従って歩みなさい。」(5:16)と勧めています。霊の導きに従って歩むとは、聖霊と共に歩むと言うことです。また、聖潔の世界の住人として生きる、あるいは、第三の世界の住人として生きるとの決心に対して聖霊は助けとなってくださる訳です。
 
また、この聖潔の生活を維持するための心得として次のことを心がけて頂きたいと思います。
それは第一に「感謝」です。感謝で毎日が満たされているならば罪に陥ることはありません。感謝の反対が先程の肉の業になります。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21ねたみ」。これを感謝に変えます。
 命があることに感謝することも出来ます。命が無くなる、すると何も出来なくなります。いのちの故に感謝したいと思います。私たちはその他すべてのことについて感謝をすることが出来ます。
 
二つ目に希望を何時も心に留める、と言うことです。私の場合、この日本がイエス・キリストのものと回復されるとの希望があります。これを心に抱きますと元気が出てきます。皆さんも日常の生活の中にこうあって欲しいという夢がありましたら、それを神様は実現してくださいますから、具体的に挙げて祈るようにしてください。これによって元気を維持することが出来ます。
 
3つ目に神様の最終的な私たちへの夢は私たち自身が歓喜に溢れて生きることだと言うことを心に留めると言うことです。
これらの目標は、私たちの思いをプラスに、アクティブに快活にします。この状態がサタンに隙を与えない効果的な方法です。
感謝の中に、希望を持って、歓喜に至る、と言うことです。
 
ヨハネの手紙T3:8「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 聖書の理解度は信仰の度合いによって変わってきます。評価する姿勢の時、神様からの手紙として読む時、聖潔への招きとして読む時、それぞれ理解度が違ってきます。ヨハネの手紙T2:28では「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」 との薦めは神の聖さの内に留まりなさいとの薦めです。「そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ」 る、と言っています。神に受け入れられている確信はすべての祝福に繋がります。3:3の「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」との御言葉も、過去の罪の赦しではなく、今からの生活を聖潔の生活とすることが出来ると言っています。3:5の「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました」も過去の罪を除くだけでなく、今後の罪をも取り除いてくださることについて述べています。聖書は読む人の心の態度によって、その理解度が違ってきます。サムエル・ブレングルは次のように指摘しています。「ほとんどの人々が神の御言葉を、自分の生活の基準にして歩んでいない」ために、また人々は「自分の経験を聖書の標準にまで引き上げてくださるように神に訴えることをしないで、聖書を自分の経験のレベルに引き下げて説明してしまう」と言っています。
 
新約聖書時代になって、特に使徒言行録以降のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、パウロ、テモテやステファノ等には道徳的な弱さなどを伺い見ることは出来ません。彼らに共通している点は聖潔の世界に入っていると言うことです。ですから彼らが記した手紙には繰り返し聖潔の生活を送るようにとの勧めが語られています。ガラテヤの信徒への手紙5:16「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。・・・5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。5:25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。私たちが聖潔の世界の住人として生きるとの決心をするならば、これに対して聖霊は助け主となってくださいます。また、この聖潔の生活を維持するための心得として次のことを心がけて頂きたいと思います。第一に「感謝」です。感謝で毎日が満たされている必要があります。不満な思いの中にサタンは入り込んで来るからです。第二に「希望」です。私たちのビジョンを神様は実現してくださいます。この希望は罪の思いをいとも簡単に退けます。第三に「歓喜」です。私たちの思いをプラスに、アクティブに快活にしておくことがサタンに隙を与えない効果的な方法です。感謝、希望、歓喜が聖潔の世界に入ると言うことです。