コリントの信徒への手紙 T 13:1 〜2
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
只今は、聖潔(きよめ)について学んでいますが、今日は聖潔とは何かについて学び、また聖潔に至るためにはどんなことに心がけるべきかについて考えたいと思います。
初めに聖潔とは何かと言うことですが、サムエル・ブレングルは第一番目に「それは、全き愛である」と述べています。彼は聖潔の世界に入った日を1885年1月9日と言っていますが、その時の証言が載っていますので紹介いたします。「私は朝食前にボストンの公園をうれしさのあまり涙し、神を讃美しながら歩き回った。その時私は真にイエスを知り、心がはりさけんばかりにイエスを愛し慕(した)っていた。目に止まる何もかもを愛し慈しみ、さえずるすずめや、散歩する犬や馬にも親しみを覚え、通りをかけまわるわんぱく坊主たちでさえ愛らしく、足早に通り過ぎる見知らぬ人にも、異教徒たちにも、愛の心を注いだ。私は世界中のものを愛していた。」
サムエル・ブレングルは「私は世界中のものを愛していた。」と証言していますが、私も以前から勿論世界中の人を愛していました。ロシアの人も愛していますし、中国の人も、北朝鮮の人も、イランの人も愛しています。しかし、意外とクリスチャンでもすべての人を愛していますと言いながらも、何気ない会話の中で、うっかり特定の国の人々について善し悪しを言っていることがあります。
人を評価する場合、国は関係ありません。どんな国でも良い人と悪いことをする人とが居る訳ですから、更に言えば悪いことをする人であってもその人は神に似せて創られた尊い存在です。すべての人は神によって造られているがゆえに尊い存在と言うことが出来ます。
全き愛は意識的に愛の言葉を語ると共に、何気ない言葉にも愛の言葉が語られるようになります。最近教えられていることは、既に述べていますように、心を開きましょう、と言う練習をしていることです。全き愛は、更に土の器をも良いものにしようと啓示を受けることが出来ます。
聖潔とは何かと言うことの二つ目として、汚れたことを憎む者、いつわり、あざむき、へつらいをいう舌、あらゆる憎悪を生み出す全ての悪の道を嫌悪する者とされること、と言っています。
これらの思いは初めの証言の言葉を言い換えたということが出来ます。即ち「その時私は真にイエスを知り、心がはりさけんばかりにイエスを愛し慕っていた」。これらの思いが、汚れたことを憎む者とし、悪の道を嫌悪する者とされていきます。
三番目に、天国と地獄を永遠の実在とし、心が清く、平和、温順、憐れみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない者とされる、と言っています。
聖潔はイエス・キリストに対する全き信頼であり、神様と自分との関係の中に実現するものです。ですから私は信仰のテーマに「ありのままの自分を現す」と言うことを挙げている訳です。人との関係を重視する場合には「ありのままの自分を現す」と言うことは出来ません。なぜならば人に良く思われたいと考えると、どうしても良い所は現すが、良くないと思われる所は隠そうとするからです。この態度は恐れと不安をもたらし、良い結果を見ることが出来なくなります。
しかし、神様と自分との関係の中に生きる時には、良くないと思われる所を隠そうとしても隠すことが出来ません。神様は一つ一つの出来事を見られるのではなく、心の思いを見ておられます。心の思いが純粋であることの方が重要です。更に神様は私たちのありのままを受け入れてくださっていますから、恐れと不安を抱いている状態ではなく、神様を信頼して、平安と自信と、喜びに満たされている様子を好まれます。
つまり、神様が喜ばれるのは人目を気にして繕(つくろ)っている様子ではなく、神様を信頼して、ありのままを現し喜びに満ちている様子の方だ、と言うことです。
サムエル・ブレングルの証言を続けて紹介しましょう。「神はこれらすべてのことを私の上になされた。私は何とかして清くなりたい。生ける神のためにうえかわいていたことだろう。しかして、神は私の心の願いを聞き入れたもうた。神は私を満たして下さったとしか言いようがない。どう考えても神は私を満たして下さった。確かに神は私を満たしたのだ。この十年間、ほんとうにすばらしかった。神が私の教師となり、導き手、カウンセラー、そしてすべての全てとなられた」。
これは「聖潔の栞」に記されたものですが、サムエル・ブレングルが聖潔に入って十年目にこの書を著したと言う事です。
私の証言をさせて頂きますと、私の場合はまだ3年しか経っていませんが、ある集会の中で自分の罪を思って、悲しみで満たされた時に、イエス様の十字架は私の罪や弱さを滅ぼすためであったと言うことを強く示されました。
その時に神の霊に打たれて、サムエル・ブレングルと同じく「神が私のすべての全て」となりました。つまり、罪や弱さはもう私に害を与える事はなくなっていました。
ヨハネの手紙T3:8に有ります、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」と言うことが私の内に実現しました。ハレルヤ。
コリントの信徒への手紙T
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
この御言葉は、異言や預言する賜物、神秘とあらゆる知識に通じても、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛が不足していると言うことがあり得ると言う事を表しています。そして、その様な信仰は「無に等しい」と言っています。
しかして、神様への全き信頼から来る「全き愛」は、如何なる時にも愛に欠けることはありません。サムエル・ブレングルは「その時、私は世界中のものを愛していた。」と有った通りです。イエス様の御業の故に感謝を捧げましょう。
聖潔に入るためには献身が必要です。 信頼と従順、自分に死ぬことが必要です。自分を守ることをしないと言うことです。「神が私のすべての全て」となる必要があります。
そうするならば、イエス様は私たちの弱さを取り除いてくださいます。
<要約>
ブレングル中将は聖潔は「全き愛である」と述べています。彼が聖潔に入った1885年1月9日についての証言に「私は朝食前にボストンの公園をうれしさのあまり涙し、神を讃美しながら歩き回った。その時私は真にイエスを知り、心がはりさけんばかりにイエスを愛し慕(した)っていた。目に止まる何もかもを愛し慈しみ、さえずるすずめや、散歩する犬や馬にも親しみを覚え、通りをかけまわるわんぱく坊主たちでさえ愛らしく、足早に通り過ぎる見知らぬ人にも、異教徒たちにも、愛の心を注いだ。私は世界中のものを愛していた」とあります。ブレングル中将は「私は世界中のものを愛していた」と証言していますが、全き愛は意識的に愛の言葉を語ると共に、何気ない言葉にも愛の言葉が語られるようになります。最近教えられていることは、心を開きましょう、と言う練習をしていることです。聖潔は、更に土の器をも良いものにしようと啓示を受けることが出来ます。また、「その時私は真にイエスを知り、心がはりさけんばかりにイエスを愛し慕っていた」という経験はその人を「柔和で心のへりくだった者」(マタイ11:29)とし、恐れや疑いから解放されていきます。
聖潔はイエス・キリストに対する全き信頼であり、神様と自分との関係の中に実現するものです。この信仰の現れとして「ありのままの自分を現す」と言うことをお勧めしています。人との関係を重視する場合には「ありのままの自分を現す」と言うことが出来ません。なぜならば人に良く思われたいと考えると、どうしても良い所は現すが、良くないと思われる所は隠そうとするからです。この態度は恐れと不安をもたらし、良い結果を見ることが出来ません。しかし、神様と自分との関係の中に生きる時には、良くないと思われる所を隠そうとしても隠すことが出来ません。神様は心の思いを見ておられますから、心の思いが純粋であることの方が重要です。更に神様は私たちのありのままを受け入れてくださっていますから、恐れと不安を抱いている状態ではなく、神様を信頼して、平安と自信と、喜びに満たされている様子を好まれます。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント13:2 )。この御言葉は、異言や預言する賜物、神秘とあらゆる知識に通じても、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛が不足していると言うことがあり得ると言う事を表しています。そして、その様な信仰は「無に等しい」と指摘しています。しかし、神様への全き信頼から来る「全き愛」は、如何なる時にも愛に欠けることはありません。ブレングル中将は「その時、私は世界中のものを愛していた」とあった通りです。イエス様の御業の故に感謝を捧げましょう。聖潔に入るためには、献身、信頼、従順、自分に死ぬ(自分を守ることをしない)が必要です。その時に「神が私のすべての全て」となる経験をすることが出来ます。