イザヤ書6:1〜8
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
今日はまず聖潔(きよめ)に入ることの必要性について見て行きましょう。聖潔に入ることの必要性の第一は私たちが求めています楽園の住人としての地位に回復されるための最低限の条件であるということです。つまり歓喜に溢れて生きる人生に入るということです。私たちはその事を求めていますし、イエス様が来てくださったのはそのためであると言うことを覚えたいと思います。
第二に、聖潔に至っていない状態における、恵みの小ささです。人間とは何かと言うことや、人生の目的など真理について理解し、人生が変革されているのですが、自分自身の変革という点が不十分なために、その目的を実現することが出来ていない状態です。
つまり働きは良い働きをしているのですが、それを完成させるための性質に与っていないということです。
第三は、私たちが回心し、信仰に入るのは聖潔に入るためであったということです。
ガラテヤの信徒への手紙5:25に「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」とあります。私たちは霊の導きに従って信仰に入りましたが、更に24時間365日、「霊の導きに従って生き」る必要があります。日曜日だけのクリスチャンであったり、自分を制するということに関心を持たないというのでは「霊の導きに従って生き」ているとは言えません。
コロサイの信徒への手紙2:6では「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。
ここでも、私たちは「主キリスト・イエスを受け入れ」る事によって信仰に入りましたが、日々の歩みを「キリストに結ばれて歩」む必要があると言うことです。これが信仰の最終の目的は聖潔に至ることです、との理由です。
それでは聖潔に入ったときの恵みについて見ていきましょう、つまり「清い心がもたらす恵み」について確認してまいりましょう。聖潔の世界に入れば、いかなる祝福に与ることが出来るのでしょうか。
ダビデは詩編51:12で次のように歌っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。51:13御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。51:14御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。51:15わたしはあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。」
ダビデは清い心がもたらす恵みは、知恵と力と霊であると知っていました。それはまた、人々を教え、導く力であると言うことです。
「清い心」と「聖なる霊」こそが王としてのダビデを支えるものでした。それと同じ意味について、イエス様はマタイによる福音書7:5で次のように言っています。
「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
これはダビデと同じ意味のことを述べているものです。自らの内にある罪が取り除かれることによって人を導く者と変えられると言うことです。
「清い心がもたらす恵み」の第一は、人を導く者と変えられると言うことです。つまり私たちが頂いている使命を実現する資質に与ると言うことです。
第二は、霊的安定と言うことです。聖潔は神への全き信頼に寄っていますので環境や、状況によって変化することはありません。
勿論聖潔は聖霊によって与えられる瞬間的なものですが、全き信頼と、全き平安は、訓練が必要です。いかなる状況においても「キリストに結ばれて」いる(コロサイ2:6)との姿勢を保つ訓練を通してまもなく霊的安定に到達します。
第三に、完全な平安です。サムエル・ブレングルは次のように述べています。「ある聖徒は『わたしは信頼することと思い煩うこととを、同時にすることはできない』。また、ジョン・ウエスレーは『思い煩うことは、神に悪態をつくのと同じくらい、いけないことと考え、反省することにしている』」と言う事を紹介しています。聖潔は私たちを思い煩いから全く解放してくれます。フィリピの信徒への手紙4:7に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」とあります。
神への全き信頼は、「神の平和」へと私たちを導きます。
私たちの考えを遙かに超えた平和というものが存在いたします。
第四に、愛が全きものにされるということです。私たちは回心によって新生を経験します。それは神によって生まれると言うことです。しかも神は愛であるために、愛の人と変えられていきます。
しかし、回心し立てではこの愛は比較的弱いものです。しかし、心が清められることによって神の愛によって満たされていきます。
コリントの信徒への手紙T
13:4「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」
また、「聖潔をめざして」に次のようにあります。「ある伝道者がののしられた。彼に敵する者は、クリスチャンだと自称していたが、しばらくして堕落した。この伝道者の友人たちはそれを喜んだが、伝道者は悲しんだ。彼の心は愛でいっぱいになり、たとえ敵対者に勝ったとしても、邪悪の勝ち誇るのを喜ぶわけにはいかなかったのである。すなわち、愛は『すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』のです。」と言っています。
さて、私たちは自分の弱さを十字架の前に明け渡し、罪の根や悪口の根から全く解放される必要がありますが、これを実現するためには、自らの強い求め、また熱心に主に求めると言うことが必要です。その求めに応えて主は聖霊を送ってくださいます。
聖潔に入るまでは、私たちはガラテヤ5:17にあるように自立した人とは言えません。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」とある通りです。
肉の最後の砦は命です。ですからこれを大事に思っている間は聖潔に入ることが出来ません。
イエス様は言いました。ヨハネによる福音書12:25「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とある通りです。
イザヤは主の前に立たされた時、自らの汚れを思い、主の前に悲しみ、消え失せるほどになりました。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(6:5)
しかし、主は聖霊を送ってくださり、彼を完全に清められました。
また、ペンテコステの時にも同じ事が起こりました。使徒言行録2:3「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
この時から弟子たちは全き平安と、信頼をもって新たな世界の住人としてスタートしました。
もう一度罪の状態について見てみましょう。ローマの信徒への手紙6:20「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない」。今までは罪の奴隷でした。罪との同居状態でした。しかし、イエス・キリストに100%服従するときに聖なる生活に入ることが出来ます。ローマ6:22「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」
イエス様は聖潔による永久的な平安と平和を与えるために私たちの世界に降りて来てくださいました。どうぞその祝福を喜んで受け取りましょう。
<要約>
聖潔に入ることの必要性について。その第一は私たちが求めています楽園の住人としての地位に回復されるための最低限の条件であるということです。つまり歓喜に溢れて生きる人生に入るということです。イエス様が来てくださったのはそのためです。第二は、聖潔に至っていない状態における、恵みの小ささです。人生の目的など真理について理解し、人生が変革されているのですが、自分自身の変革という点が不十分なために、その目的を完成することが出来ていないと言うことです。第三は、私たちが信仰に入ったのは聖潔に入るためであったということです。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイ2:6)とあります。信仰の最終目的は日々の歩みを「キリストに結ばれて歩」む(聖潔の生活)事です。さて聖潔の世界に入れば、いかなる祝福に与ることが出来るのでしょうか。ダビデは詩編51:12で次のように歌っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。ダビデは清い心がもたらす恵みは、人々を教え、導く力である事を知っていました。イエス様も言いました。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:5)。自らの内にある罪が取り除かれることによって人を導くことのできる者と変えられると言うことです。
また、ブレングル中将は「ある聖徒は『わたしは信頼することと思い煩うこととを、同時にすることはできない』。また、ジョン・ウエスレーは『思い煩うことは、神に悪態をつくのと同じくらい、いけないことと考え、反省することにしている』」と言う事を紹介しています。聖潔は私たちを思い煩いから全く解放してくれます。フィリピの信徒への手紙4:7に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。私たちの考えを遙かに超えた平和というものが存在いたします。さて聖潔に入るまでは、私たちは「肉と霊とが対立し合っている」(ガラテヤ5:17)状態から解放されることはありません。イザヤは主の前に立たされた時、自らの汚れを思い、主の前に悲しみ、消え失せるほどになりました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(6:5)。しかし、主は聖霊を送ってくださり、彼を完全に清められました。この後イザヤは全き平安と、信頼をもって新たな世界の住人としてスタートしました。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです」(ローマ6:20-21)。イエス様は聖潔による永久的な平安と平和を与えるために私たちの世界に降りて来てくださいました。どうぞその祝福を喜んで受け取りましょう。