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-罪から解放されていることが喜び- 前へ / 後へ -神は私を祝福してくださる-
「天の幻」(110731ku)
 
使徒言行録26:12〜20
26:13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。26:14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。』
 
 
今日のテーマの「天の幻」とはパウロが受けた啓示のことです。すなわち彼は13節で、「私は天からの光を見たのです。」と言っています。さらにパウロは、イエス様からの語りかけを聞いたと述べています。
26:17「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
 
19節では「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、」とあります。サムエル・ブレングルはこの天からの啓示のことを「天の幻」と言っています。
パウロはこの「天の幻」を受けて、回心し、更に聖潔にまで至りました。彼は人々を「サタンの支配から神に立ち帰らせ」るために生涯を捧げる者となりました。
 
パウロは「天から示されたことに背かず」と言っていますが多くの人々が天の幻に従順であったことによって、その祝福にも与っています。
私たちは遅かれ早かれ「天の幻」に出会います。それは良心の声である時もありますし、過去を悔い改める時であったり、弱さや悲しみを感じている時や、苦悩や途方に暮れている時にもやってきます。また、望みが砕かれ、挫折する時などにやってきます。また、突発的な出来事の中に現されることがあります。
私がひったくり犯に出会った時もそうでした。犯人を追いかけている途中で「やっぱり捕まえるのは無理かな」と一瞬思ったのですが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)を思いだし、自分がしようとしていた仕事のことは諦めて、犯人逮捕に命をかけました。
 
勿論この時、私には関係ありません、と言って傍観者でいることも出来ましたし、また、追いかけてみましたが、これ以上は私の体力を超えています、と言って納得することも出来ました。しかし、私は被害者のため、また、犯人の更正のために全力を尽くしなさいとの「天の幻」に従いました。
私が最初に聞いた「天の幻」、天からの御声は「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテU4:2)と言うものでした。これにも私は背かず、献身の願いを申し出しました。
また、「あなたのすべての罪を滅ぼすためにこそ私は十字架に掛かったのだよ」との御声にも従い、また、受け入れました。それによって聖潔の世界に入ることが出来ました。
 
天の啓示に対して、勿論、人はノーと言うことは出来ますが、それは大きな悲しみを選び取ることになります。金持ちの青年もその悲しみを経験しました。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイ19:22)
しかし、パウロはそうではありませんでした。「26:19こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、26:20ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。」 (26:19-20)
 
今皆さんは天からの御声が掛けられているのではないでしょうか。今、主にすべてを明け渡すべきではないでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙2:19に次のようにあります。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
これはパウロのガラテヤの人たちへの手紙ですが、私はこれまでこの御言葉は、信徒への説教の言葉として聞いていました。なるほど信仰とは自分に死に、神に生きることですね、と理解していました。
 
しかし、今回、これはパウロの証言であることに気付きました。普段私たちが語る証言でこれほどに述べることが出来るでしょうか。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」。この御言葉は、いかに、パウロがキリストと一つになっているかと言うことを表していると思います。
 私たちもパウロが体験したように、罪に対して死に、「キリストがわたしの内に生きて」います、と言う聖潔の世界に入ることが出来ます。
 
「天からの啓示」はすべての人に注がれています。この声に従順である時に、私たちは最終的に救いの完成である全き救い、聖潔の世界に入ることが出来ます。どうぞこれを求めてまいりましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 今日のテーマの「天の幻」とはパウロが受けた啓示のことです。すなわち「主は言われました。『・・・わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである』」(26:15、17-18)。19節に「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、」とあります。サムエル・ブレングルはこの天からの啓示のことを「天の幻」と言っています。パウロはこの「天の幻」を受けて、回心し、更に聖潔にまで至りました。彼は人々を「サタンの支配から神に立ち帰らせ」るために生涯を捧げる者となりました。私たちは遅かれ早かれ「天の幻」に出会います。それは良心の声である時もありますし、過去を悔い改める時であったり、弱さや悲しみを感じている時や、苦悩や途方に暮れている時にもやってきます。また、望みが砕かれ、挫折する時などにやってきます。私が最初に聞いた「天の幻」、天からの御声は「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテU4:2)と言うものでした。これにも私は背かず、献身の願いを申し出しました。
 
また、「あなたのすべての罪を滅ぼすためにこそ私は十字架に掛かったのだよ」との御声にも従い、また、受け入れました。それによって聖潔の世界に入ることが出来ました。天の啓示に対して、勿論、人はノーと言うことは出来ますが、それは大きな悲しみを選び取ることになります。金持ちの青年もその悲しみを経験しました。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)。しかし、パウロはそうではありませんでした。「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19-20)。今皆さんは天からの御声が掛けられているのではないでしょうか。今、主にすべてを明け渡すべきではないでしょうか。「天からの啓示」はすべての人に注がれています。この声に従順である時に、私たちは最終的に救いの完成である全き救い、聖潔の世界に入ることが出来ます。どうぞこれを求めてまいりましょう。