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-わたしは聖なる者だからである- 前へ / 後へ -天の幻-
「罪から解放されていることが喜び」(110821ku)
 
ヨハネの手紙T3:5〜10
3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。・・・・・3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
 
 
自分の主導権をキリストに明け渡しましょう、と勧めていますが「それでは人間ではなくなってしまうでしょう」と考えるかもしれません。イエス様に主導権を明け渡すことの良い例として、二人三脚をイメージすると良いと思います。イエス様と私は片足だけ繋がっています。そして、私はイエス様が喜ばれるだろうと思われる方向に進もうとします。イエス様は通常は私の歩みに合わせてくださっています。
しかし、ある時家電量販店のテレビに視線を持っていくと、なかなか興味をそそる番組が流れていました。つい立ち止まって時間が経過していきます。そうするとイエス様が「さあ目的の用事を済ませましょう。」と注意をしてくれます。そして私は、「あ、用事の途中でテレビに注目すると気を取られるから、この次からは無視するようにしよう。」と学習します。
あるいは、友達と待ち合わせをしていましたが、家を出る前に電話が掛かってきて、出発が遅れて待ち合わせの時間に遅れてしまい、相手を待たせてしまいました。「ごめんごめんこうこうこう言う訳で遅くなっちゃって」と謝りましたが、相手は許してくれません。
そこで、心の中で「こんなに謝っているのに」と言う思いが沸き起こってきました。するとイエス様が「許してくれるまで謝りましょうね」と注意をしてくれます。そして私は、「相手が許してくれない時でも、相手を責める思いを抱いてはいけないんだ。」と学習します。
 
このように、イエス様に主導権を明け渡すことによってミスを犯す危険はありますが、イエス様からの注意によってだんだんと学習をして、ミスが減少していきます。
決して自由意思や感情が無くなるのではありません。人間の感情は喜怒哀楽と怨む事、と説明されています。つまり、喜ぶこと、怒ること、哀しむこと、楽しいと思うこと、怨むこと、と言うことです。
人間にはこの感情が与えられていますが、このすべてを現しても良いと言うことではありません。喜ぶこと、楽しいと思うことについては制限ないと思いますが、怒(おこ)ることについては注意が必要です。イエス様が怒ったのは宮清めの時と(ヨハネ2:15)、ラザロの死を悲しむ人たちを御覧になって、人々を悲しませるものに対して憤りを現されました。このように神様への愛の思いから、あるいは人間に対する愛の思いから怒ることはあったとしても、自己防衛や、自尊心を傷つけられた等(など)の理由で、怒ったり、怨んだりすることは無くなるように努めなければなりません。
イエス様に主導権を明け渡すことによってこれらのミスは無くなっていきます。
 
ですからイエス様に主導権を明け渡すことによって、決して人間性が無くなってしまうと言う事ではないと言うことです。そうではなくて平安と平和を壊す無用な感情や欲求が軽減され、より豊かな人間性を現すことが出来るようになると言うことです。
 
それでも、まだ自然な思いを捨ててしまうのは窮屈で、楽しめないと考えるでしょうか。そう思える時には、次のことをイメージすることをお勧めいたします。つまり「希望」です。イエス様と思いを一つにすることによって得られる希望、それは神様からの限りない祝福とその約束の確信が与えられること、そして、その確信から来る平安です。
 
聖書は次のように言っています。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)。
イエス様と思いが一つになることによってこれらの約束が実現いたします。
 
さて、クリスチャンであることの確信、望み、期待しているものは何でしょうか。多くの人は、「天国に行けること、永遠の命があること」と答えるのでははないかと思います。勿論、この望みによって私たちは悪に対して毅然とした態度で対抗することが出来るようになっていることは大きな恵みです。
 
しかし、天国行きの切符に匹敵する大きな恵みがクリスチャンには与えられていることをご存じでしょうか。それは、罪から解放されているという恵みです。サタンに勝利していると言うことも出来ます。
ヨハネの手紙T3:5には「御子は罪を除くために現れました。」とあります。また、3:8には「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とある通りです。
ガラテヤの信徒への手紙5:17に有りますように私たちの意志は常に2つのものによって相争いつつ決断をしています。つまり、「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」とある通りです。
この対立に対して終止符を打つためにイエス様は来られました。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」(3:8)と言うことです。
これによって、私たちは霊の導きに従って生きる者と変えられていきます。
ガラテヤの信徒への手紙5:16「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
 
イエス様は勿論社会的な面においての悪魔の働きを滅ぼすために世に来られましたが、私たちの意志の中にも来てくださりその肉の思いを滅ぼしてくださいます。
 
罪から解放されている。これはすばらしい恵みです。天国行きの切符と同じように優れたものです。
どうぞ、この事はイエス様に求めさえすれば与えて頂けるものです。どうぞ単純に求めて行きましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 自分の主導権をキリストに明け渡しましょう、と勧めていますが「それでは人間ではなくなってしまうでしょう」と考えるかもしれません。イエス様に主導権を明け渡すことの良い例として、二人三脚をイメージすると良いと思います。イエス様と私は片足が繋がっています。そして、私はイエス様が喜ばれるだろうと思われる方向に進もうとします。イエス様は通常は私の歩みに合わせてくださっています。しかし、ある時家電量販店のテレビに視線を持っていくと、つい立ち止まって時間が経過してしまいました。そうするとイエス様が「さあ目的の用事を済ませましょう。」と注意をしてくれます。あるいは、友達と待ち合わせをしていましたが、家を出る前に電話が掛かってきて、出発が遅れて相手を待たせてしまいました。「ごめんごめんこうこうこう言う訳で遅くなっちゃって」と謝りましたが、相手は許してくれません。そこで、心の中で「こんなに謝っているのに」と言う思いが沸き起こってきました。するとイエス様が「許してくれるまで謝りましょうね」と注意をしてくれます。そして私は、「相手が許してくれない時でも、相手を責める思いを抱いてはいけないんだ」と学習します。このように、イエス様に主導権を明け渡すことによって、イエス様からの注意を頂き学習をしてミスが軽減されていきます。人間らしさが無くなるようなものではありません。但し喜怒哀楽の怒については注意が必要です。神様への愛、人への愛の思いからのものではなく、自己防衛や、自尊心を傷つけられた等(など)の理由で、怒ったり、怨んだりすることは無くなるように努めなければなりません。
 
さて、クリスチャンであることの望みは「天国に行けること」です。しかし、天国行きに匹敵する大きな恵みがクリスチャンには与えられています。それは、罪から解放されているという恵みです。ヨハネの手紙T3:5には「御子は罪を除くために現れました。」とあります。また、3:8には「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とある通りです。ガラテヤ5:17は「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言っています。この対立に対して終止符を打つためにイエス様は来られました。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」(3:8)と言うことです。天国行きは先のことですが、「罪からの解放」は今現在の恵みと言うことが出来ます。この恵みを自分のものとしてまいりましょう。