road_ar(ロードアラ)メッセージ    ホームへ             《聖められる》  category
メッセージリストへ
-聖潔の必要性- 前へ / 後へ -罪から解放されていることが喜び-
「わたしは聖なる者だからである」(111023ku)
 
ペトロの手紙T 1:13〜21
1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
 
 
1:13に「 だから、」とありますが、これはその前の10節から述べられている内容を指して述べられている「だから、」であります。ペトロの手紙Tはガラテヤやアジアに離散しているクリスチャンに対して書かれた手紙であることが1:1から分かります。またその挨拶の言葉に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」(2)「選ばれた」と言っています。
ガラテヤのクリスチャンに述べられた言葉は、今の私たちにも語られたことと考えることができます。私たち一人一人は神様の「御計画に基づいて」、「選ばれ」てキリストの救いに与っている者です。父なる神に感謝いたしましょう。
 
また、神の「“霊”によって聖なる者とされ」(2)ています、と述べられています。キリストの贖いのわざのゆえに私たちは神に受け入れられ、聖なる者として受け入れられています。
3節では「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3)た。と述べています。ニコデモは「年をとった者が、どうして"新たに"生まれることができましょう」(ヨハネ3:4)と言っていますが、しかし、私たちは神と共に生きる人生と、それ以前の、自分が全ての決断者であった時の人生とを比べるならば、私たちの救いの経験は「新たに生まれた」と言うことを信じることができます。
 
4節では、神は「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」と述べられています。神様の財産の相続人と私たちは成っています。何と素晴らしいことでしょうか。神様の財産の第一は何と言っても「永遠の命」でしょう。私たちは「死んでも死なない」(ヨハ11:25)命に与っています。その他にどんな財産があるでしょうか、ペトロは「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」と言っています。感謝いたします。
 
10節においては、その様な素晴らしい神の救いは、預言者達によって語られていました、と述べられています。
 「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」(10-12)
 
 
昔の預言者達があこがれ、待ち望み、希望としていたものが、今私たちはそれぞれ自分のものとしています。
天地の創造から、ノアの時代、アブラハムの時代、モーセ、ダビデの時代を経て、2000年前に神の救いが実現いたしました。ですからコリントの信徒への手紙U6:2に「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と述べられている訳です。
 
それゆえに13節で「だから」と述べられている訳です。
13節の見出しは「聖なる生活をしよう」となっています。素晴らしい恵みと祝福を頂いているのですから「聖なる生活を」しましょうと言うことです。これはまた、頂いている祝福から墜ちてしまわないためでもある訳です。
「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13)。このように言われると窮屈に感じるかもしれませんが、私たちは何らそのように考える必要はありません。私たちの喜びはひたすら主の御心を行うことであるからです。イエス様は言いました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34) 。イエス様は父の御心を行うことがわたしの楽しみですと言っています。
イエス様の思いはまた、私たちの思いでもあります。それ以外のものに喜びなどはありません。   
 
私たちの喜びは神に愛されていることであり、神に受け入れられていることであり、イエス様が共に歩んでくださることです。私たちは神以外のものに依存するようなことがあってはなりません。21節に「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」とある通りです。
神以外のものは全て、神の愛の対象です。即ちアガペーの愛の対象と言うことです。犠牲的愛を注ぐものであり、そこに自分の満足を求めるものではないと言うことです。クリスチャンは自分の満足は神によって与えられているものです。
 
 
15節には、あなたがたは「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです」とあります。
「聖なる者となりなさい」。これは神様からの厳(おごそ)かな勧めです。その理由は「わたしは聖なる者だからである」と言うことです。神と共に生きる。そのためには神と同じ性質を持っている必要があります。
「聖なる者となりなさい」。これは神様を第一とする時に出来るものです。神様よりも「やっぱり自分が大事だわ」とか、「妻や夫が大事、子供も大事よ」。こうなってくると神を第一としていることになりません。それらのものは非常に大事なものですが、しかし、神以上のものとしてはらない訳です。神以上に大事なものがあると言うのは、それに依存していると言うことです。
つまりその大事なもののご機嫌を伺い、その大事なものによって自分の人生が左右されると言うことです。つまり支配されていると言うことです。
そうなると神様への信頼は損なわれ、救いの確信も揺らいでくることになります。
クリスチャンが依存するもの、また支配されて良いものは神様の他にあっては成らないと言うのは、そのためです。私たちは最終的には肉体の死を迎えます。この時には神様と自分の関係のみが問題となってきます。神以外のものに依存していたとしても、その時にはそれらのものは何の助けにも成りません。
 
17節には「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」とあります。
神様は私たちの強い味方であり祝福と平安の源です。またその為に、恵みと祝福から墜ちないように神様の聖さに留まる必要もあります。神様を第一とする時にその事は自分の身に実現されます。「その方を畏れて生活すべきです」とは神様を第一とすると言うことです。
「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(1:16)
聖なる、父なる神と、子なるキリストと、聖霊さまのゆえに感謝いたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> ペトロの手紙Tの挨拶の言葉に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」「選ばれた」(2)とあります。私たちは神様の「御計画に基づいて」、「選ばれ」てキリストの救いに与っている一人一人であることを感謝いたいと思います。3節では「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3)たとあります。ニコデモは理解できませんでしたが、私たちは神と共に生きる人生と、それ以前の不確かな人生とを比べるならば私たちの救いの経験は「新たに生まれた」と言うことを信じることができます。4節には、神は「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」とあります。私たちは神様の財産の相続人です。その第一は「永遠の命」です。私たちは「死んでも死なない」(ヨハ11:25)命に与っています。また「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」の相続人であることを感謝したいと思います。10節からはその様な祝福は旧約時代の預言者達があこがれていたものであったことが記されています。それゆえに13節から「だから」「聖なる生活を」(13節の見出し)しましょうとある訳です。これはまた、その祝福から墜ちてしまわないためでもあります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13)。このように言われると窮屈に感じるかもしれませんが私たちは誘惑に目を向けるのではなく恵みに目を向けることによって聖さを保ちたいと思います。
 
イエス様は言いました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34) 。イエス様は父の御心を行うことがわたしの楽しみですと言っています。イエス様の思いはまた、私たちの思いでもあります。それ以外のものに喜びなどはありません。私たちの喜びは神に愛されていることであり、神に受け入れられていることであり、イエス様が共に歩んでくださることです。私たちは神以外のものに依存するようなことがあってはなりません。「聖なる者となりなさい」(15)。これは神様を第一とする時に出来るものです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26)。妻や夫、子供であってもそれらは依存するものではなくアガペーの愛を注ぐ対象であると言うことです。私たちは最終的には肉体の死を迎えます。この時には神様と自分との関係のみが問題となってきます。神以外のものに依存していたとしても、その時には何の助けにも成りません。私たちの強い味方であり祝福と平安の源である神様の聖さの中に歩んでまいりましょう。