聖潔の必要性については繰り返しになりますが、第一に神様からの要請があると言うことです。ですから、誰もが聖潔の世界に入ることができると言うことです。第二に聖潔の世界に入らなければ信仰が完成しないと言うことです。神様からの要請については、ペトロの手紙T1:15に「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。1:16『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」とあるように、人間は元々「聖なる者」として造られているので、勿論聖潔に入ることが出来ると言うことです。
故(ゆえ)に聖書は次のように言っています。テサロニケT5:23「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」。つまり、パウロは願い求め、を記していますが、勿論、それが可能であるから求めていると言うことです。
テサロニケT4:3では「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とあります。神様は人間を聖い者として造られましたが、神様から離れてしまったために、罪ある者となってしまいました。しかし、イエス・キリストの御業を通してもう一度「聖い者」となることが出来るようになりました。ですから私たちがイエス・キリストを「信じます」、「受け入れます」と言うことは、即ち、聖潔を「求めます」、聖潔の世界に「入ります」と宣言したと言うことです。
そして実際、イエス・キリストに自分を委ね、服従し、従順になるならば、その時に聖潔の世界に入ったことになる訳です。
テサロニケT4:7では「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」とあります。神の目的は私たちが「聖なる生活」をするためであると繰り返し教えています。
コリントU7:1では「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」と勧めています。
テサロニケT5:15からもう一度読んで見ましょう。
「5:15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 “霊”の火を消してはいけません。5:20 預言を軽んじてはいけません。5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」
ここでもイエス・キリストに自分を委ね、服従し、従順になるならば、「必ずそのとおりにしてくださいます。」と「聖潔の世界」に入れると教えています。
ローマ6:19では「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」とあります。
私たちは以前は罪の奴隷でしたが、奴隷は奴隷でも、その主人を罪から義に、サタンから神に取り替えましたから聖潔の世界の住人とされている訳です。私たちの側で成すべき事は、「分かりました」、「今その世界に入ります」、と決心をすることだけです。
ローマ12:1では「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とあります。
ここでも神を礼拝し、イエス・キリストを信じると言うことは「聖潔の世界」の住人になると言うことを意味していますと述べています。
テトスへの手紙2:14では「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」とあります。
ここではハッキリとイエス・キリストの十字架での御業の目的が語られています。それは聖められた民を造るためでした。神様はこの世界を聖められた民で満たそうとされています。
只今までの学びで分かったことは、神様の側では私たちを聖潔に導く用意は完成していると言うことです。そして人の側でそれを求めさえすれば何時(いつ)でも実現すると言うことです。
聖潔の必要性の第一のことは神様からの要請があると言うことでした。第二には聖潔の世界に入ることが信仰の目的であり、それが信仰の完成であると言うことです。
救世軍では准兵士と言う制度がありますが、准兵士とは兵士になるための準備期間のことで、何時までも准兵士で居ることは不自然なのであり、速やかに兵士になるべきであると言うことです。それと同じように、信仰は聖潔に入ると言うことであり、その前の段階で満足していてはいけないと言うことです。
繰り返しになりますが「その前の段階」と言うのは、罪となお同居している状態です。何が真実であって何が良いことであるかは理解できたのですが、まだ、それを実行することが出来ない状態と言うことです。
これはあまり良い状態ではありません。善を知ってはいるがそれをする力がない状態なために、罪責感を持ったり、良心の呵責に耐えなければならないと言う事が起こったりします。
また。ある人々は罪責感から逃れるために聖潔に入るのは死後のことであって肉体を持っている時には少しでも聖潔に近づけば良いのである、と結論づけてしまってると言うことがあります。
これについては節度ある飲酒が不可能であるのと同じように、罪との同居の中に信仰の成長を期待することは出来ないと言うことです。イエス・キリストに対する部分的な従順とは非常に不安定な信仰状態ですから、速やかに自分の全部を、全身全霊を明け渡して、イエス・キリストに自分の全部を委ね、服従し、従順になる必要があります。
テサロニケT4:3「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」
神様は人間を聖い者として造られました。今イエス・キリストを通してもう一度「聖い者」となることが出来るようになっています。私たちが成すべき事は聖潔を「求めます」、聖潔の世界に「入ります」と決心をするだけです。そして実際、イエス・キリストに自分を委ね、服従し、従順になると言うことです。
ルカ9:61 「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」
創世記19:17 「彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」19:26 ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」
罪の世界を振り返ってはなりません。
《今日の聖書》
9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
〈要約〉
聖潔の必要性については第一に神様からの要請があると言うことであり、第二に聖潔の世界に入ることが信仰の完成と言うことです。一にについては、ペトロT1:16に「『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」とあります。人間は元々「聖なる者」として造られているので、勿論聖潔に入ることが出来ると言うことです(テサロニケT4:3)。神様は人間を聖い者として造られましたが、神様から離れてしまったために、罪ある者となってしまいました。しかしイエス・キリストの御業を通してもう一度「聖い者」となることが出来るようになりました。ですから私たちがイエス・キリストを「信じます」、「受け入れます」と言うことは、即ち、聖潔を「求めます」、聖潔の世界に「入ります」と宣言したと言うことです。そして実際、イエス・キリストに自分を委ね、服従し、従順になるならば、その時に聖潔の世界に入ったことになります(テサT5:23、テサT4:7、コリントU7:1、ローマ6:19)。既に私たちは聖潔の世界の住人とされています。私たちの側で成すべき事は、「分かりました」、「今その世界に入ります」、と決心をすることだけです(ローマ12:1)。テトス2:14では「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」とあります。イエス・キリストの十字架の御業の目的は聖められた民を造るためでした。神様はこの世界を聖められた民で満たそうとされています。
神様の側では私たちを聖潔に導く用意は完成しています。私たちは准兵士とは兵士になるための準備期間のことで、何時までも准兵士で居ることは不自然であることを知っています。それと同じように、信仰とは聖潔に入ると言うことであり、その前の段階で満足していてはいけないと言うことです。「その前の段階」と言うのは、罪となお同居している状態です。何が真実であって何が良いことであるかは理解できたのですが、まだそれを実行することが出来ない状態です。これはあまり良い状態ではありません。これについては節度ある飲酒が不可能であるのと同じように、罪との同居の中に信仰の成長を期待することは出来ません。イエス・キリストに対する部分的な従順とは非常に不安定な信仰状態ですから、速やかに自分の全部を、全身全霊を明け渡して、イエス・キリストに自分の全部を委ね、服従し、従順になる必要があります。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(テサT4:3)。神様は人間を聖い者として造られました。今イエス・キリストを通してもう一度「聖い者」となることが出来るようになっています。私たちが成すべき事は聖潔を「求めます」、聖潔の世界に「入ります」と決心をするだけなのです。「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9:62)。