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-古い生き方を捨てる- 前へ / 後へ -聖潔の必要性-
「真の幸福」(111211ku)
 
ペトロの手紙T2:11〜23
 
今日の主題は先週の続きになりますので「聖潔の必要性その2」となります。先週は聖潔の必要性の第一は神様からの要請があると言うことでした。第二には聖潔の世界に入ることが信仰の目的ですと言うことです。今日は三番目になりますが、少し長くなりますが真の幸福を得るためには全世界が聖められる必要があり、そのためにはまず自分が聖潔に入る必要があると言うことです。
 
さて世界が聖められる必要があると言う点ですが、それはつまり自分がクリスチャンになり、霊的な平安を得たとしても、実質的には社会の問題や社会の未熟さ、矛盾や争いの影響を受けて、自分だけが平和でいると言うことは出来ません。ですから真の平和が実現されるためには世界とまでは言わないまでも国単位で聖められる必要があります。
つまりイエス様の宣教命令である、マタイによる福音書28:19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」を実行する必要があると言うことです。そして、隣人に伝道するためには、自分自身が救われているだけでは十分ではなく、聖潔の世界に入っている必要があると言うことです。
 
今日のテキストの、ペトロの手紙T2:12に「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とあります。「異教徒の間で立派に生活」をしていくためには聖潔の世界に入っている必要があります。マタイによる福音書5:16でも、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。
 
また、ペトロの手紙T2:13には「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。・・・2:14皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」とあります。つまり、神様は教会だけに目を注がれているのではなく、国単位で救おうとされていると言うことです。「すべて人間の立てた制度に従いなさい。」と神様は国家の単位で救いに導こうとしていることが分かります。ローマの信徒への手紙13:1では「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」とあります。神様は国家の権威を教会の権威と同じく尊重しています。世界はそれぞれの人間的な思いの中で動かされているように思いがちですが、なお世界は神様の御手の中にあり、神様によって統治されています。国の政治は神様の赦しの範囲の中で行われていると言うことです。
ですから私たちは国家の長が善い政治が出来るように応援し、祈っていかなければなりません。行政の政治によって私たちの生活環境が左右される訳ですから良い政治が行われるよう祈っていく必要があります。
またそれと同時にすべての人が救われるように宣教命令を実践していかなければなりません。隣人を救うために、自分自身がサタンに対して勝利している必要があります。ヤコブの手紙1:27に「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」とあります。人を助けるためには自分自身が自立している必要があり、聖められている必要があります。
 
また同時にこの聖潔は人々の手本であり、希望を喚起させるものであり、また神を求める思いを促すものとなります。 (ヨブ11:13-19)
 
 
また、カウンセリングの中で言われていることですが人を援助するためにはカウンセラー自身が癒されている必要があり、ありのままの自分を現し言行一致を保てる必要があります。これを完全に行うためには聖められている必要があると言うことです。
残念ながら多くの教会では聖潔の前の弱さの中に有り、いたわり合い、支え合うと言う中に留まってしまっています。つまり、「私も弱い者ですがイエス様に赦されているので安心しています。お互い助け合っていきましょう。」と言うスタンスになっています。
これは今、日本社会で言われて来ている絆であって、繋がっていることによって立つことが出来るという姿勢です。勿論それでも大きな助けになるのですが、場合によってはその絆が壊れてしまうと言うことも否定出来ず、限界が有ると言う事です。
聖書の教えは一人一人がその救いによって強くされる事によって弱さの中にある人々に助けの手を指し伸べる事が出来るという事です。
聖書の中の記事を見てみれば分かることですが、アブラハムやヤコブ、宰相となったヨセフにおいても、絆によって立ち上がった人々と言うのではなく、神様と繋がっていることによる強さによって立っている信仰の勇者達である訳です。
 
そのような強さの中から、アブラハムの場合は甥ロトの救出や、ヤコブは伯父ラバンに対する忠誠、ヨセフは兄弟や家族への愛の行為、エジプト人への真実な愛などを見ることが出来ます。決して弱さの中でのいたわり合いや、支え合いましょうと言うのではありませんでした。
 
新約の人々も然りです。ペトロやパウロ、ステファノや、フィリポ。彼らは自らの弱さをキリストによって贖われ、神の強さによって人々の真の救いのために愛の実践をした信仰の勇者達です。聖書の記事の中に絆に表される日本人的信条を見ることはありません。福音は一人一人を自立した者として、福音によって神の強さに与る者としています。弱い者が弱い者を助けることは出来ません。福音とは人との繋がりによって立つと言うのではなく、神との繋がりによって立ち、それによって愛の手を人々に注ぐことが出来るようになると言うことです。
 
(ヤコブ1:27)「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」と言うことです。
信仰による強さは、神様への全き献身によって与えられるものです。つまり、聖潔の世界に入ることによって得られるものです。
 
もう一つの点はマタイによる福音書5:14に「あなたがたは世の光である。」とありますが、行いばかりではなく、自分の家を治めたり、自分のからだの管理なども当然含まれてきます。アメリカやヨーロッパの国々、つまりキリスト教国と言われているところでは自分の身体の管理が出来ない人は会社での管理者になれないと聞きます。自分の身体の管理において、自制や節制、努力が出来ない人は自立していないとみなされます。
 
 
これらについても、自分の主導権をイエス様に完全に明け渡すことによって自分を律することが出来るようになってきます。
 
テトスへの手紙2:14では「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」とあります。
 ここではハッキリとイエス・キリストの十字架での御業の目的が語られています。それは聖められた民を造るためであり、神様はこの世界を聖められた民で満たそうとされていると言うことです。もし、聖潔を求めないのであればイエス様の贖いの業を無にすることになってしまいます。
またペトロの手紙T2:24には「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」とあります。
 イエス様の十字架は、私たちが「罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」 でした。私たちの身体はもはやキリストに買い取られたものであり、もはや自分自身のものではありません。自分の身体の主導権はイエス様が握っておられることを覚えなければなりません。
またその事を自覚する時に聖潔の世界の住人となることが出来ます。
 
「真の幸福」の実現のため自分自身を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ12:1)てまいりたいと思います。
 
 
 
 
 
 
《今日の聖書》
ペトロの手紙T2:11〜23「2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〈要約〉 先週は聖潔の必要性の第一は神様からの要請があると言うことでした。第二には聖潔の世界に入ることが信仰の目的ですと言うことです。今日は三番目になりますが、それは真の幸福を得るためには全世界が聖められる必要があり、そのためにも私たちは聖潔に入る必要があると言うことです。私たちは霊的な平安を得たとしても、実質的には社会が平和であるかどうかと言うことが影響してきます。つまり世界も国家も聖められる必要があると言うことです。そのためには宣教が必要であり(マタイ28:19)、その実現には今日の御言葉通り良い行いが必要であり(ペトロT2:12)、その実行には私たちが聖められている必要があると言うことです。隣人を救うために、自分自身がサタンに対して勝利している必要があります。ヤコブの手紙1:27に「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあります。人を助けるためには自分自身が自立している必要があり、聖められている必要があります。
 
また、カウンセリングの中で言われていることは人を援助するためにはカウンセラー自身が癒されている必要があり、ありのままの自分を現し言行一致を保てる必要があると言うことです。残念ながら多くのクリスチャンは聖潔の前の弱さの中に、いたわり合い、支え合うという中に留まってしまっています。つまり、「私も弱い者ですがイエス様に赦しを頂いているのだから、お互い助け合っていきましょう。」と言うことです。これは今言われている絆であって、繋がっていることによって立つと言うことですが(日本人的信条)、結果としては弱い人が弱い人を助けることは出来ないのです。聖書の中の記事を見るとアブラハムやヤコブ、宰相となったヨセフ、新約のペトロやパウロ、ステファノや、フィリポ、彼らは自らの弱さをキリストによって贖われ、神の強さによって人々の真の救いのために愛の実践をした信仰の勇者達です。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ1:27)。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」(テトス2:14)。世界は聖められた民によって贖われます。その為にまず私たち自身が全き献身による聖潔の世界に入る必要があるのです。