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-神の恵の善い管理者- 前へ / 後へ -古い生き方を捨てる-
「買い取られた」(120108ku)
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ローマの信徒への手紙 6:1〜18
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。
 
 
今日の聖書箇所には実に信仰の土台の部分が記されています。正確には5:12から記されていますので、そこから辿(たど)ってみたいと思います。
見出しに「アダムとキリスト」とありますが、ここではアダムによって罪が入り込み死が入ってきた点を指摘し、一方キリストによって、その罪が取り消され、死が滅ぼされたと言うことが説明されています。
6:1からは、その信仰の法則をいかにしたならば自分自身に現すことが出来るかという点について説明しています。その目標は見出しにあるように「罪に死に、キリストに生きる」と言う点です。
 
ここで言われています「キリストに生きる」とは、つまり罪から解放され義によって生きるようになると言うことです。つまり良いと思うことを行うことが出来、悪いと思うことを止(や)めることが出来る人になる、と言うことです。
この点において神様の側ではすべて成すべき事は完了しています。旧約の時代を通し、新約の時代に入り、イエス様がすべてを実現してくださいました。残るは、私たちがその恵みをどのように受け取るかと言うことです。
 クリスチャンになったからと言って神様が用意してくださったものを直ぐに受け取ることが出来ると言うものではないことは経験上皆さんも理解していると思います。算数の1+1=2とか2-1=1と言うように単純には行かないものです。健康管理や人との接し方、仕事や家族との関係など正しい生き方と言っても多種多様ですから単純には行きません。
勿論今日はその具体的な点までは触れられませんが、その土台となる点について確認をしたいと思います。
 
6:1は論外のことが述べられています。つまり罪はイエス様によって赦されるという恵みを頂いているのだから罪の中にあっても良いとすることも出来ますね、と言うことですが勿論、罪を犯さないで居ることが出来るのにわざわざ罪を犯す事などあって良い訳がありません。
6:2では「罪に対して死んだわたしたちが」とありますが、まだこの点は十分と言うことではありません。
3節では「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。私たちが信仰に入ったのはキリストの死に与るためです。つまり古い自分に死ぬためにイエス様はその死を受けてくださいました。古い自分とは私たちの罪と言うことです。
ですから私たちは古い自分が現れる時には、イエス様の死を思い見るべきだと思います。今日のテーマは「買い取られた」と言うことです。私たちはイエス様の十字架の死という代価によって買い取られた者です。もはや自分の思いを単純に実行して良いと言う身分ではないと言うことを覚えたいと思います。
 
4節では私たちはキリストの死に与るものだと述べられています。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。
 
また更にその死ばかりではなく復活にも与っていますと言うことが述べられています。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。
キリストの復活に与るとは、まさにキリストの栄光に与ることですから、救いの完成、聖潔に与ると言って良いと思います。私たちは実に罪に死に神に生きる者と召されています。
私たちはキリストによって「新しい命に生きる」者と招かれていると同時に、既(すで)にその新しい命を頂いている者です。
 
5節「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。つまり私たちの献身の度合い次第です、と言うことです。イエス様の十字架に全部を献げるならば、「復活の姿にも」全部与れると言うことです。
 
6-11「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。
 イエス・キリストを信じるとはイエス・キリストの死に与ると言うことです。古き人をイエス様の十字架の前に献げましょう。そうするならばイエス様のその復活にも与る者となります。
私たちが生きることは、そんなに単純なものではないと初めに言いましたが、信仰における土台がハッキリしているのであれば、すべての場面において改善されていくのは当然です。まずその思いが聖められているのであれば、日を追うごとにその聖さは目に見えるものへと現れてきます。
 
12-14節「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
 
6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下(もと)ではなく、恵みの下(もと)にいるのです。」
 ここでも「6:14 罪は、もはや、あなたがたを支配することはない」と述べています。
 
15節からは「義の奴隷」について述べられています。
イエス様は滅びるほかになかった私たちを救うために、その代価として十字架に掛かると言う御業を実現されました。ですから私たちはイエス様に買い取られた「義の奴隷」であると言うことが出来ます。
15節は導入ですので16節からお読みいたします。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。」
 私たちは義に使える「神の奴隷」であることを感謝したいと思います。義の世界の住人である事をイメージしましょう。
 
コリントの信徒への手紙T6:2では
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とあります。
 イエス様の尊いみわざは、私たちが「神の栄光」を現す為でありました。私たちは「買い取られた」者です。
 
 私たちは地上における間は誤りと弱さの中にありますが、それらから強められるためには霊的な助けと、また、私たちの努力する面があります。第一には信仰であり、次に幾つかのイメージを持つことは助けになると思います。一つには「希望がある」と言うイメージです。イメージと言っても勿論、事実です。また「勝利が約束されている、地上におけるリーダーである」と言うのも良いでしょう。
 
更に、もう一つ加えて「買い取られた」と言うことをイメージして頂ければと思います。これらの御言葉を度々思い起こすことが出来るように工夫されると良いと思います。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリントT6:2)。
 
イエス様の十字架における代価の故に感謝を捧げましょう。
 
 
 
 
<要約> ローマ5:12からは「アダムとキリスト」について信仰の基本でであります罪と救いについて記され、6:1からは、その実際について記されています。「罪に死に、キリストに生きる」と言う点です。つまり良いと思うことを行うことが出来、悪いと思うことを止めることが出来る人になると言うことです。この点において神様の側ではすべて完成しています。しかし、正しい生き方と言っても健康管理や人との接し方、仕事や家族との関係など多種多様で単純には行きません。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」(6:3)。私たちが信仰に入ったのはキリストの死に与るためです。つまり古い自分(罪)に死ぬためにイエス様はその死を受けてくださいました。ですから私たちは古い自分が現れる時には、イエス様の死を思い見るべきです。私たちはイエス様の十字架の死という代価によって「買い取られた」者です。もはや自分の思いを単純に実行して良いと言う身分ではないと言うことを覚えたいと思います。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4)。ここではキリストの死に与るだけではなく、復活にも与る者であるとあります。つまりキリストの栄光に与ることであり、それは救いの完成、聖潔に与ると言うことです。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(5)。それは私たちの献身の度合いにかかっています。イエス様の十字架に全部を献げるならば、「復活の姿にも」全部与かることが出来ます。
 
私たちが生きるとは、そんなに単純なものではないと言いましたが、信仰における土台がハッキリしているのであれば、すべての場面において改善され、日を追うごとにその聖さは目に見えるものへと現れていきます。6:18節では「(あなたがたは)罪から解放され、義に仕えるようになりました」とあります。私たちは義に仕える「神の奴隷」であることを感謝したいと思います。コリントT6:2では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とあります。イエス様の尊い御業は、私たちが「神の栄光」となる為であり、私たちはそのために「買い取られた」者です。私たちは古い自分が現れる時には「希望がある」と言うイメージを思い起こし、「勝利が約束されている」「地上におけるリーダーである」、更に「買い取られた」と言うことをイメージしましょう。イエス様の十字架における代価の故に感謝を捧げます。