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-希望がある- 前へ / 後へ -神の恵の善い管理者-
「感謝の中に」(120819aza)
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資料 聖潔への道

テサロニケの信徒への手紙T5:14〜24
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。5:15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。5:19 “霊”の火を消してはいけません。5:20 預言を軽んじてはいけません。5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
 
 
「5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。」と勧められていますが、
私たちは、たまに喜んだり、感謝したりと言うことは出来ると思いますが、これを「いつも」と言われると、自信を持って「そうしています」と言える人は少ないのではないでしょうか。
 
しかし、今日は「いつも喜んで」いられるようになるための信仰について学んでいきたいと思います。
 始めに学ぶと言うことについての土台となることについて確認したいと思います。
皆さんは小隊とは何であるとお考えでしょうか。小隊の役割は何であると思われているでしょうか。第一には礼拝の場所、交わりの場所、と言うことが言えるでしょう。しかし、今日は特に小隊は学校であるという点を覚えて頂きたいと思います。
つまり、小隊は神の国の原則を学ぶ学校であると言うことです。勿論、小隊で奉仕があったり、救霊活動があったりもするでしょう。しかし、小隊は基本的には学校であり、また、軍隊式に言えば小隊は司令部です。つまり司令部では戦争はしないと言うことです。戦争は司令部の外で行うと言うことです。
つまり、小隊で神の国の原則を学び、小隊を出てからがクリスチャンとしての戦いに入ると言うことです。家庭や職場、学校や地域社会での交わり、友人や親族との関係の中で如何に神の国の原則を実践するかと言うことがクリスチャンとしての使命を果たしているかどうかと言うことになります。
救世軍兵士の戦いの場は小隊ではなく、家に帰ってからであると言うことを覚えて頂きたいと思います。
 
次に第一に学んで頂きたいことはクリスチャンには「希望がある」と言う点です。
ここで、説明をしておきたいと思いますが、実は、本来は第一に来るものは「聖潔の世界に入る」と言うことなのですが、これを第一にしてしまうと、皆さんの中には聖潔と聞くと何か窮屈になるような気がして尻込みをしてしまうと言う方が居るのではないかな、と心配する訳です。それで、「希望」を第一にしている訳です。
しかし、実際には勿論「聖潔」は、窮屈になるものではありません。そうではなく、「聖潔」は希望と、勝利の人生を勝ち取るための手段である訳です。
そこで、まず、希望と、勝利について学ぶことによって、積極的な思いをまず持って貰おうというのが、「希望」を第一、「勝利」を第二に持ってきた理由です。
 
クリスチャンには希望があると言うことを十分に知って頂き、更に、クリスチャンには勝利が定まっていることについて十分に知って頂くことによって、私も早く聖潔の世界に入りたいという思いを持って欲しいと言うことを願っている訳です。
勿論、今日は、その全部をお話しすることは出来ませんが、何かまた、学びの機会が有ればと願っています。
 
ここで最終的には聖潔について語ろうとしている訳ですから、始めに、少し、私の証言をしたいと思います。私は今から4年前の2008年のある集会の中で、悔改めの時間に「イエス様は私の罪を完全に取り除くために十字架に掛かられた」と言うことを理解しました。そして、すべての罪、弱さや、性格もイエス様の十字架の元に差し出した訳です。
勿論、弱さや、性格は急には変わりませんが、少しずつ変わってきていると思います。
またこれは勿論、私の力で出来たものではなく、聖潔の必要性を切実に思い、求めて行った時に、神様が与えてくださったものです。また、聖潔の世界に入ったからといっても勿論、間違いや失敗はする訳です。思いの上での、悪い思いが取り除かれたと言うことです。
 
聖潔の世界に入って、はじめて、今日の御言葉である「5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言うものが、真理の言葉であると、実感することが出来ました。
つまり、聖潔にに入る前には「いつも喜んでいなさい」と言う御言葉を読んでも、「『いつも』と言うのはちょっとオーバーなんじゃない」と。つまり、本当には理解していなかった訳です。
 
ここで今日のおさらいをしておきますが、学びの準備として小隊は神の国の原則を学ぶ学校であって、信仰を実践する場所はお家に帰ってからです、と言うことでした。
そして信仰の目標は「聖潔の世界に入る」と言うことですが、その前に、第一として、クリスチャンには、「希望がある」と言うこと。第二にクリスチャンには、「勝利が定まっている」と言うことについて学ぶ必要があると言うことでした。
 次に当座の信仰の目標は「聖潔の世界に入る」事ですが最終の目標は「イエスのように してください」と言う賛美がありますが、最終目標はイエス・キリストであり、神様の性質に与ることです。
実は聖潔の世界に入ることによって初めて、イエス・キリストを目指して前進することが出来る訳です。つまり、聖潔の世界に入ることによって初て、最終目標に向かうスタートラインに立ったと言うことになります。
 聖潔の世界に入る以前の世界では罪と善との同居状態ですので3歩進んで2歩下がるというような状態ですので、なかなか前進することが出来ないと言うことです。
私は世界という言葉を使っていますが、私はこの世界を3つに分けています。つまり、イエス・キリストを受け入れていない人々の世界を第一の世界とします。第二の世界はイエス・キリストを受け入れてはいるが、まだ罪との同居の中にあるという世界です。そして第三の世界が罪と全く縁を切った人々の世界です。
 世界という考え方は、私が酒を飲んだり、煙草を吸っていた時の友人関係から、それらを全く必要としない救世軍での交友関係に入った時に、これは世界が別である、という認識を持っていたからです。
救世軍の交友関係に入ったならば、それ以前に必要であった物は色あせてしまって、自分には何の影響も持たないようになりました。つまり、別世界のことですから影響を受けないと言うことです。
私の古い友人から「煙草も吸わない、酒も飲まないで何が楽しみで生きているの。」と質問をされることがありましたが、こちらとしては、そのように質問されること自体、理解が出来ないという状態です。ですからこれは住んでいる世界が違うのだと言うしかありません。
救いや聖潔についても同じ事が言えると思います。
 
さて、ここで重要な一点について述べておきます。それはイエス・キリストを受け入れた時には、その事をできるだけ多くの人に、その事を伝えると言うことが重要ですと言われています。小隊で証言をするだけではなく、家族や友人、職場の人にも「私はイエス・キリストを救い主として受け入れました。」と言う必要があります。
マタイによる福音書に「10:32 『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』」と有る通りです。
 
それと同じように聖潔の世界に入った場合も、その事を証言する必要があると言うことです。テサロニケの信徒への手紙T4:3に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とあるように、神様はすべての人が第三の世界に入ることを願っていますので、そのことを証言することは、あらゆる面で益となります。
 
聖潔の教師と言われているサムエル・ブレングルは「その恵みを保つには」と言う所で、次のように言っています。
 その恵みを保つには、それを告白し、積極的になって、他人にも、あずからせようと努めなければならない。
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)。この恩寵を証言することを差し控える者はこれを失うであろう。この光は、ますの下に隠されたならば消えてしまう。神がわたしたちにその光をくださるのは、わたしたちがそれを燭台に置いて、家・小隊・共同体・国の民などを明るく照らすためである。不信仰によって証言の力に制限が加えられてはならない。一本のたいまつは他の千本のたいまつに点火されることによって、光や熱が失われることは全くないのである。
 
 このように述べられていますから、救いや聖潔の世界に入った時には積極的に証言をしてくださるようお願いいたします。
さて今日は、第一の「希望がある」と言う点の、ほんの一コマになりますが、「私たちの目標は金魚になることです」と言う信仰イメージについてお話しいたします。
このイメージを受け取ったのは3年前位になりますが、その年の受難日に、断食と瞑想の時を持ちました。その最初の時に与えられたものです。兎に角瞑想とは言ってもまず、聖書を読もうと思いまして、創世記1:1から読み始めました。ところが1:1を繰り返し読むだけで先に進まなくなってしまいました。つまり「初めに、神は天地を創造された。」ここから先に進みません。そして私は次のように問いかけていました。「神様なぜあなたはこの世界を創造されたのですか」と。
そして与えられた答えが金魚のイメージでした。つまり人間はペットの金魚を買ってきて水槽に入れて買いますが、誰も、金魚が元気なく、うなだれて泳ぐ姿を見ようと金魚を買ってくる人は居ません。そうではなく、元気に泳ぐ姿を見ようと金魚を買ってきます。
実は神様はこの世界を創造されたのは自分の形に似せて造られた人間が歓喜に溢れて生きる姿を見ようとして、この世界を創造されたのだと言うことでした。
ですから私たちが、うなだれて、元気なく、下を向いて生きていたならば、神様はどんなにか心を痛め、どうしたら元気になるだろうかと、心を痛められます。
神様が喜ばれることは私たち人間が平和で互いに助け合い、支え合い、そして歓喜に溢れて生きる時に喜ばれるのだと言うことです。
 
最近の物理学者や生物学者、天文学者達は地球以外には生物は居ないとほぼ断言しています。そして彼らはこの宇宙が造られたのは人間を造るためであり、人間を造るために宇宙は始められたと言っています。
実に神様は恵まれた地球を形作り、植物を生えさせ、魚や、鳥や動物たちを溢れさせました。つまり、舞台装置の大道具小道具が整えられました。そこに主人公の人間が登場することになります。そして神様は、次のように言います。
創世記1:26「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』1:27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。1:28 神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』 --- 1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。2:1 天地万物は完成された。」
 
私たち人間は神様が創造された物の最高の作品であり、この世界は人間が楽しむために準備された物です。私は4、5年前から花を見るのが好きになりまして、写真も撮るようになりました。胡蝶蘭を見てはその巧みな業に神様を誉め称えます。またあぜ道に咲く何気ない花の中に素晴らしい美しさを見出して、驚嘆する訳です。最近は空の写真を撮るようになってきました。兎に角神様が造られた世界は素晴らしいと、驚きつつ喜んでいます。
 
是非皆さんも、傷ついたり、元気を失うような時には、神様の思いを汲み取って元気を取り戻して頂きたいと思います。
神様によって、私たちは、毎日を元気に生きることが期待されているからです。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(5:18)とある通りです。
 
エレミヤ書29:11に次のように述べられています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」。私たちには神様によって「将来と希望」が与えられています。災いや失望ではなく「希望」です。これを信じると言うことが信仰です。
ヨハネによる福音書10:10には「盗人が来るのは、盗んだり、屠(ほふ)ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とあります。私たちはイエス様によって、豊かな人生が約束されています。
このように神様から励ましの言葉を頂いているのですから信仰を持って一歩前進二歩前進と進んでいきましょう。
 
どうぞ、私たちは神様に喜ばれる生き方を選んで行くならば、神様の素晴らしい約束を手にすることが出来ます。このお方と共に人生を歩んでまいりましょう。
 
最後にもう一度言いますが、神様のこの素晴らしい約束を勝ち取るには、「神様に喜ばれる生き方を選んで行く」 と言う決心がなければ成りません。どうぞそのような決心の時を持ちましょう。