マタイによる福音書11:12
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲(おそ)われており、激しく襲(おそ)う者がそれを奪い取ろうとしている。
皆さんは小隊とは何であるとお考えでしょうか。小隊の役割は何であると思われているでしょうか。第一には礼拝の場所、交わりの場所、と言うことが言えるでしょう。しかし、今日は特に小隊は学校であるという点を覚えて頂きたいと思います。
つまり、小隊は神の国の原則を学ぶ学校であると言うことです。勿論、小隊で奉仕があったり、救霊活動があったりもするでしょう。しかし、小隊は基本的には学校であり、また、軍隊式に言えば小隊は司令部です。つまり司令部では戦争はしないと言うことです。戦争は司令部の外で行うと言うことです。
つまり、小隊で神の国の原則を学び、小隊を出てからがクリスチャンとしての戦いに入ると言うことです。家庭や職場、学校や地域社会での交わり、友人や親族との関係の中で如何に神の国の原則を実践するかと言うことがクリスチャンとしての使命を果たしているかどうかと言うことになります。
神の国の原則には、
フィリピの信徒への手紙「2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、・・・」とあります。また、愛や正義、公平などもあります。
救世軍兵士の戦いの場は小隊ではなく、家に帰ってからであると言うことを覚えて頂きたいと思います。
小隊活動が第一ではなく、各個人が祝福を受ける事が第一です。各個人が祝福されるならば、当然小隊も祝福される訳です。
また、小隊は兵士から支えられるものではなく、小隊は兵士をサポートする所です。小隊は自立しています。
「口語ヨハネ2:24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、2:25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。・・・」とあるように小隊はイエス・キリストをひな形としています。
さて、クリスチャンの最終目標は「聖潔の世界に入る」事です。
聖潔について、私は、今までは、弱さや罪があっても、赦される。愛されている。と考えていました。クリスチャンになる事によって罪は赦されるという信仰でした。
また、聖潔の学びをすると、霊的に高められ、それを維持しようとしていましたが、日常のストレスが溜まると、元に戻ってしまいました。
しかし、今回学んだことは、聖潔には、素晴らしい祝福が約束されている、と言う点を教えられ、もう元には戻りたくないという思いで一杯になっています。
私は2008年6月26日の集会の中で、悔改めの時間に「イエス様は私の罪を完全に滅ぼすために十字架に掛かられた」と言うことを理解しました。そして、すべての罪、弱さや、性格もイエス様の十字架の元に差し出した訳です。
ヨハネの手紙T「3:8 悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」の御言を受け入れる事が出来ました。
聖潔の世界に入る以前の世界では罪との同居状態ですので3歩進んで2歩下がるというような状態ですので、なかなか前進することが出来ないと言うことが起こっていました。
私は世界という言葉を使っていますが、私はこの世界を3つに分けています。つまり、イエス・キリストを受け入れていない人々の世界を第一の世界とします。第二の世界はイエス・キリストを受け入れてはいるが、まだ罪との同居の中にあるという世界です。そして第三の世界が罪と全く縁を切った人々の世界です。
第三の世界は実に素晴らしい世界です。
「聖潔の栞」からブレングル中将の証言を紹介します。「1885年1月9日午前9時頃、神は私の霊魂を聖別したもうたのである。その時私は自分の部屋にいたが、数分後には外に出て、出会った人に神が私になしたもうたことを語った。翌朝、私は通りでもう一人の友人に出会ったので、この祝福された物語を話した。すると彼は大声で神を賛美し、さらに全き救いとその信仰の告白をいずこにあっても宣べ伝えるよう、しきりに激励してくれた。神は彼をして、私を励まし助けたもうたのである。そこで翌日、私はできる限り明確に力を込めてこのことについて説教し、私の証言をもって終わった。神はその言葉を祝福したまい、他の多くの人々に力強く迫った。しかし、思うに、神は私自身を最も祝福されたのである。この告白は私の心に深く刻まれた。私の背後の橋は切りおとされたのだ。神も悪魔も人の目も、今や神が清い心を与えたことを明言した者として、私を見つめているのだった。もはやあとずさりすることは出来ない。ただ前進あるのみであった。」。
実に聖潔の世界に入る事の素晴らしさを証言しています。そして私も先に述べましたが、もう元には戻りたくないという思いで一杯であると言う事を述べています。
聖潔に入ることの祝福の第一は「希望がある」と言う点です。第二は「勝利が定まっている」と言うことです。
さて今日は、第一の「希望がある」と言う点について述べたいと思います。信仰イメージに「私たちの目標は金魚になることです」と言うのがあります。
このイメージを受け取ったのは3年前位になりますが、その年の受難日に、断食と瞑想の時を持ちました。その最初の時に与えられたものです。兎に角瞑想とは言ってもまず、聖書を読もうと思いまして、創世記1:1から読み始めました。ところが1:1を繰り返し読むだけで先に進まなくなってしまいました。つまり「初めに、神は天地を創造された。」ここから先に進みません。そして私は次のように問いかけていました。「神様なぜあなたはこの世界を創造されたのですか」と。
そして与えられた答えが金魚のイメージでした。つまり人間はペットの金魚を買ってきて水槽に入れて買いますが、誰も、金魚が元気なく、うなだれて泳ぐ姿を見ようと金魚を買ってくる人は居ません。そうではなく、元気に泳ぐ姿を見ようと金魚を買ってきます。神様も同じ思いであるという事が分かりました。
神様はこの世界を創造されたのは自分の形に似せて造られた人間が歓喜に溢れて生きる姿を見ようとして、この世界を創造されたのだと言うことでした。
ですから私たちが、うなだれて、元気なく、下を向いて生きていたならば、神様はどんなにか心を痛め、どうしたら元気になるだろうかと、心を痛められます。
神様が喜ばれることは私たち人間が平和で互いに助け合い、支え合い、そして歓喜に溢れて生きる時に喜ばれるのだと言うことです。
最近の物理学者や生物学者、天文学者達は地球以外には生命は居ないと断言しています。そして彼らはこの宇宙が造られたのは人間を造るためであり、人間を造るために宇宙は始められたと言っています。
実に神様は恵まれた地球を形作り、植物を生えさせ、魚や、鳥や動物たちを溢れさせました。つまり、舞台装置の大道具小道具が整えられました。そこに主人公の人間が登場することになります。そして神様は、次のように言います。
創世記 「1:28 神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』
私たち人間は神様が創造された物の最高の作品であり、この世界は人間が楽しむために準備された物です。
ですから私たちは、神様によって毎日を元気に生きることが期待されていると言うことです。期待されているという事は応援もしてくださるという事です。
エレミヤ書29:11に次のように述べられています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」。
私たちには神様によって「将来と希望」が与えられています。災いや失望ではなく「希望がある」と言う事です。これを信じると言うことが信仰です。
ヨハネによる福音書10:10には「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とあります。私たちはイエス様によって、豊かな人生が約束されています。
私たちは神様の祝福と希望を勝ち取るために、全き救い、つまり聖潔の世界に入るという決心の時を持って頂きたいと思います。そうでなければ、イエス様の十字架の御業を無駄にすることでもあります。
「3:8 悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」(ヨハネT)とある通りです。
救いはイエス様の十字架の目的の3割であり、7割を無駄にしている事になります。
マタイによる福音書「11:12天の国は力ずくで襲(おそ)われており、激しく襲(おそ)う者がそれを奪い取ろうとしている。」()
どうぞ神の国を地上に実現するために、より積極的に、またサタンに対して果敢に戦いを挑んでまいりましょう。
また、勇猛果敢に神の国を自分自身の中に形作っていきたいと思います。
マタイ7:7 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
天の国を激しく求めていきましょう。