ヘブライ人への手紙 5:5〜14
5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。
5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。5:11 このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。5:12 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。5:13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。5:14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
今日は「聖潔への道」とのテーマを付けました。聖潔はどのようにしたら得られるかというテーマですが、第1には、そもそも聖潔を受ける必要があるのかという問題もあります。
私たちには救いを受けていればそれで充分ではないか、と言う考え方もあります。勿論救いを受けているのであれば、天国へ入れますし、それなりに神様の守りと祝福に与ることが出来ます。
しかし、救いを受けているだけと言う状態は、なお罪との同居状態ですから、神様の祝福の全部は受け取っていないと言うことを記憶しなければなりません。
罪との同居状態では次のようなことが起こっていることになります。不安、怒り、赦せない思い、妬み、嫉妬、不信、疑い、自分を卑下(ひげ)し弱さを否定しない。このようなものが考えられます。
勿論クリスチャンはどうあるべきか、と言う事については良く学んでいるので、知識としては知っていますし、目標として、また努力しようとしています。しかし、それを実現していないと言うことです。そのために神様の祝福の全部を受け取れていない状態になっていると言うことです。
ここで先の罪の性質について少し見て行きたいと思います。一つには不安と言うことですが、心配をすると言う事でもあります。不安や心配、これは神様に全てを委ねていないので、何かあったら自分の力で何とかしなければいけない、と考えるので出てくるものです。聖められている人は全てを神様に委ねているので、神様が助けてくださる、神様が最善の道に導いてくださると信じているので、どのような時にも平安を保つことができます。
また、怒り、赦せない思いについては、
勿論少々のことについては赦すことが出来るのですが、しかし、怒りの思いが出てきてしまうこともある訳です。特に自尊心を傷つけられる時に起こります。つまりプライドを傷つけられるというようなことです。人から無視されたり、仲間はずれにされたり、これはもう虐(いじ)めであり、迫害になります。
聖潔の世界に入っている人は、そもそも自分を一歩脇に退け、自分の主導権をイエス様に明け渡していますので、傷付くプライド自体が亡くなっている状態である訳です。彼に有る思いは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という御言だけである訳です。
ウクライナのサンデー・アデラジャ牧師は次のように言っています。
「私は祈り、黙想しました。理屈の上では『愛は怒らない』ということを知っていましたが、私はよく怒っていたのです。この御言をいろいろな状況に適用するには、どうしたらよいのだろう。『もし、誰かが私を殴ったり、顔に唾を吐いたりしたらどうするだろう。怒るだろうか』。自分の知識がただの理屈に過ぎないことを教えられたのです。そこで私は、教えが実践できるようになるまで頭の中で『再生』し続けました。この練習を終えた時、私は別の人になっていました。怒らなくなっていたのです。教会の人たちだけでなく、敵や、私に陰謀をたくらむ人たちをも愛せるようになりました。今や嫌いな人は一人もいないと誇ることができます。怒ったりいらいらしたすることもなくなりました。神はいらいらしたりせず、愛をもって人を見ておられます。神の愛が私の心を満たしているので、人々が私をどう取り扱おうと、彼らを愛しています。」
これがサンデー・アデラジャ牧師の文章の引用ですが、彼の怒りの克服には「練習した」と言う事です。しかし、聖潔の世界に入っていない人はこの練習も難しいかもしれません。但し、この練習中に聖潔に入れるかもしれません。
何(いず)れにしましても怒りの克服には、自分を捨てる、或いはプライドを捨てると言うことと、神の愛を心に満たすと言う事が必要になります。
また、もう一つ付け加えなければならないのは、過去に受けた傷を癒すと言うことです。特に子供の頃に受けた傷を癒す必要があります。
人はその成長段階で必要な愛を受けられず傷を受けてしまうと、情緒不安定になると言われていますが、それは魂に傷を受けているからと説明できると思います。
(忍耐力が無くなる)
ですから、過去の記憶を呼び起こし、そこにイエス様に来て頂いて、癒して頂く必要があります。特に親や友人を恨みに思っている時は、悔い改めてイエス様の赦しを頂くようにします。
そして過去に出会った人をも愛せるようにする訳です。
(例:祖母を恨んでしまった)
次に、妬み、嫉妬と言う事ですがこれも自尊心、プライドが関係してきています。人が祝福を受けると単純に喜べないと言う事があります。特に同僚や、自分より後だった人が上司になったりとなると、内心穏やかでないと言う事が起こります。何か悪いことが起こると良いのに、とまでは思わないにしても、その人が失敗などをすると心の中で喜んでいる自分に気付くことはないでしょうか。
考え方としては、同僚でも後からの人でもその人が祝福されるならば自分もそのおこぼれに与れると、考えると良いと思います。(日本中が祝福されるなら)
何(いず)れにしても、自分を捨てる、或いはプライドを捨てると言うことがなければ、人を単純に祝福するということができません。
次に不信、疑いと言う事ですが、これは不安のもう一方の心情です。神様への信頼が不十分である時に、起こってくる心情です。これは前にも述べましたようにクリスチャンには希望があると言う事を信じる必要があります。エレミヤ書29:11「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。
この御言を信じるならば不信、疑いは無くなります。神様を信じる者には神様は素晴らしい将来を与えましょうと言って下さってるのですから何も疑う必要はありません。勿論100%主に信頼しますというのは聖潔の世界に入ると言うことですから、聖潔の世界に入るまでは事の大小はありますが不信、疑いから完全に解放されることはできません。神様から何か責められるような所が残っている時には、神様の守りの確信が得られないからです。
次に「自分を卑下(ひげ)し、弱さを否定しない」と言うことですが、卑下(ひげ)する、と言うのを辞書で見ますと「みずからをいやしめてへりくだること」とあります。謙遜はクリスチャンに求められている性質ですが、卑下(ひげ)するとか、私は弱い者です、と言うのは、罪を犯すことの口実になっていることがあります。また、クリスチャンに求められている使命から逃れる口実に使われることもあるでしょう。
本来私たちクリスチャンは救われる以前は自分を制御することのできない、弱い人間であった訳ですが、イエス・キリストの救いを受けて、イエス・キリストの強さに与っている者である訳です。
その強さを公にできないのは、まだ充分に主に委ねきっていないことの表れと言うほかありません。
さて如何でしょうか罪との同居状態では神様の祝福のほんの少ししか受け取っていないと言うことに気付いて頂けたでしょうか。救いを受けただけでは福音はまだ完成していません。聖潔の世界に入って初めて福音は完成します。聖潔の世界に入ることの必要性を実感して頂けたでしょうか。
更に、聖潔の世界に入ることの必要性としては、第一には今述べました福音を完成させるために必要ですと言うことです。
第二に宣教のために必要ですと言うことです。隣人を救いに導くためには宣べ伝える人自身が福音を実践していなければならないのは当然です。今年のケズィックコンベンションに来たロバート・カンビル師が話していたことですがインドのマハトマ・ガンジーは何時も聖書を手に持って旅行していることを知っている人が、ある時尋ねたそうです。「ガンジーさんあなたは何時も聖書を手にしておられますが何故クリスチャンにならないのですか。」と聞いたそうです。するとガンジーは「キリストと同じように生きているクリスチャンに出会うならばいつでもクリスチャンになりますよ」と言ったと言う事です。
福音を伝えるには伝える人自身がどう生きているかと言うことが重要となってくると言うことです。
第三に私たちが聖潔の世界に入ることは神様の御心であると言う事です。テサロニケT4:3「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とあります。また、
ヨハネの手紙T3:8「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とあります。「悪魔の働きを滅ぼす」と言うのは私たちの心にある悪い思いを滅ぼすという意味でもある訳です。実にイエス・キリストが十字架に架かられたのは私たちが聖潔に入るためであった訳です。
第四に聖潔は、人間の元もとの性質です、と言う事です。
最初の人アダムとエバは神と共に生きる聖潔の人でした。しかし、楽園を去ってからは人間は罪との同居状態に陥ってしまいましたが、神様は神様の思いを実現するためにイエス・キリストを世に送ってくださいました。
私たちは本来の姿に帰るよう愛の神によって招かれています。それを否(こば)む理由はないと思います。
また勿論招かれていると言うことは、聖潔は実現できることであると言うことを意味している訳です。人間の元々の性質に戻るだけですから出来ないことは勿論無い訳です。
私たちの本来の姿に戻りましょうと言うことですから、聖潔を求めるのは当然の欲求である訳です。
さて最後にどうしたら聖潔の世界に入ることが出来るかと言うことについて項目だけ述べておきます。聖潔を受けようとの決心が付きましたら次のことを実行してください。
第一に、聖潔を得られると信じること。
第二に、失敗しても諦めないで聖潔を求め続けること。
第三に、聖潔は深い悔い改めによって得られること。
反省、謝罪する、と言うような誤りを認めると言うようなものではありません。罪はもう私になんの影響も与えません。完全に離れます、との決心を伴うものです。
第四に、聖潔はそれを求め続ける人に聖霊が働くときに与えられます。(悔い改めが伴う)。
イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を完全に滅ぼすためでありました。それを実現していないと言うことはキリストの死を無駄にしていると言うほか有りません。聖潔を受けるために、全ての罪を十字架の元に差し出すことが求められています。
ヘブライ人への手紙5:8に「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな」られた。と記されています。
どうぞ、「キリストと同じように生きているクリスチャン」 こそが本当のクリスチャンです。どうぞ聖潔を求めてまいりましょう。