マタイによる福音書 13:44〜46
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
リバイバルを求めないクリスチャンは居ないと思いますが、しかし、それを口にする人は少ないのではないでしょうか。それは、リバイバルと言うものを体験したことがないし、見たこともない。「現実に起こるようには思えない」、そのような思いがリバイバルと言う言葉が口から出てこない理由ではないかと思います。
では、あなたはリバイバルを見たのかと問われるならば、実は私も見たことはありません。しかし、2008年に聖潔に入ってからは、この言葉を口にしないではいられない、という思いで一杯になってきました。
福音を語らないではいられない、と言うパウロの思いに通じるものがあります。
コリントT9:16に「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。」とあります。
それはどのような状態なのか、説明するならば、次のようになります。つまり私の心の中でリバイバルが起こっているから、と言うことです。私の心の中でリバイバルが起こっているので、それを口にしないではいられない状態である訳です。
もう一つの理由はリバイバルが起こるとの確信が強く強くなってきていて、リバイバルが起こらないと言うことこそ、信じられないという思いで一杯になってきていると言う事です。
キリストの福音は何と素晴らしいことか、人々がこの福音を求めて押し寄せて来る、と言う事を疑うことが出来ません。
福音の素晴らしさについては、マタイ13:44に記されています。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とあります。
イエス様は人々が自分の「持ち物をすっかり売り払って」でも、この福音を手に入れたいと思うだろう、と言っています。
宝石商に例えた記事は45、46節です。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。:46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」。
本物の宝石商と言うのは、ただ、お金を沢山儲けようと言うのではありません。本物の宝石商とは宝石をこよなく愛し、良い真珠をお客様に身につけて貰おう。また、自分もそのような素晴らしい真珠に出会いたいものだ、と考えている人が、本物の宝石商人で有る訳です。そこで良い真珠を見つけた商人は、それまで集めていた宝石を全部売り払って、その良い真珠を買う訳です。福音、つまり「天の国」は「良い真珠」よりも更に優れた価値のあるものである訳です。
ですから、「人々がこの福音を求めて押し寄せて来る」と言うイメージが何時も頭の中に浮かんで来ると言うことです。
リバイバルを口にする、もう一つの理由は、心に信じたことは必ず実現すると言うイエス様の約束です。マルコ11:24「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」と有る通りです。マルコ16:15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」。この全世界の中には勿論、日本も含まれています。ですから間もなく日本もキリストの国と呼ばれるようになる訳です。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」と言って下さっていますので、私は信じて止(や)まない訳です。
さて、とは言え、このように聞かされても何か空言(そらごと)のように聞こえているかもしれません。私も聖潔を受けるまでは同じように感じていました。つまり、「でも少し無理があるんじゃない。」と言う事ですね。
先程のパウロの言葉「コリントT9:16「そうせずにはいられないことだからです。」と言う御言についても、以前はそこまで言いますか、私にはまだ理解出来ないな、と言う状態でした。
勿論回心した時や、献身したばかりの頃は「そうせずにはいられない」という思いに駆られていましたが、しかし、それは正しい知識によったものではありませんでした。
何(いず)れにしても、聖潔に至まではリバイバルが起こると、確信するまでには至っていませんでした。
ですから、「リバイバルは聖潔によって始まる」ことは間違い有りません。人は聖潔に入ることによって、その心にリバイバルが起こされ、その心に起こったリバイバルは目に見える形となって実現して来ます。
「リバイバルは聖潔によって始まる」訳ですから、私たちは聖潔を兎に角、手にしなければなりません。
信仰生活には、それぞれ契機となることがあります。第1が回心、或いは献身です、この時に起こる主要な要素は悔い改めです。私がそれまで働きかけていた友人への伝道は少しも進展していませんでした。ある時、恵の座で祈っていた時に霊に打たれて悔い改めの思いで一杯になりました。それは「私の力では何も成し遂げることは出来ません。降参します。これからはあなたが私の主人となってください」と言うものでした。
聖潔に入る時も同じです。より深い悔改めが起こる必要があります。そのためには、勿論聖霊様が働いて下さらなければなりません。聖潔に入る条件は諦めないで、それを求め続けると言うことです。そうするならば必ず、聖霊様が働いて下さり天の国の住人となることが出来ます。
ヤコブは言いました。ヤコブ3:8「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。3:10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」
悪口(あっこう)は全ての良い働きを破壊し、リバイバルの火をも消し去ってしまいます。
私たちは完全になるまではどうしても人を悪く言うということを言ってしまうものでが、この点についても私たちは悔改める必要が有るのではないでしょうか。
ローマ12:9には「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
また、フィリピ2:3「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、」なさい、とあります。
クリスチャンにとってどうしても必要なことは謙遜です。一に謙遜、二に謙遜、三にも謙遜だとロバート・カンビル師は言いました。私が頂いた信仰イメージは「全ての人に対して心を開き、敬意をもって接する。」と言うものでした。特に何時も目の前にいる人に「敬意をもって接する。」と言う事は練習が必要です。全ての人は成功する権利がありますが、失敗する権利も持っています。「ああ、それは違うよ」などと言うことによって感情を害することがあります。全ての人は神の子ですからその権威を尊重しなければなりません。
また、ロバート・カンビル師の説教の中で「マハトマ・ガンジーは『キリストと同じように生きているクリスチャンに出会うならば、いつでも私はクリスチャンになりますよ』と言ったと言う事を紹介していました。
私たちはキリストと同じように生きるクリスチャンであるでしょうか。神様は私たちの全てをご存じであり、その履歴は全て書き留められています。人が見ている時も見ていない時も、神様は全てをその履歴に載せておられます。
神の前に聖なる者だけが、神に信頼を置くことが出来ます。
ヨハネT2:28「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」。神に聖なる者だけが、この確信を持つことが出来ます。
ヨハネT3:21にも「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、」ます。とあります。私たちは確信がなければ不安から解放されることが出来ません。心に責められることがある内はこの確信を手にすることが出来ません。
清めの聖霊を下さることについてはルカ11:13に記されています。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と有る通りです。
どうぞ神に求めてまいりましょう。神様は必ず私たちを清めて下さいます。そして諦めないで求めていく時に神様は与えて下さいます。
また私たちが聖潔の世界に入ることは神様の御心であると言う事です。テサロニケT4:3「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とあります。
更に、ヨハネの手紙T3:8には「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とあります。「悪魔の働きを滅ぼす」と言うのは私たちの心にある悪い思いをも滅ぼすという意味です。実にイエス・キリストが十字架に架かられたのは私たちが聖潔に入るためであった訳です。
マタイ13:44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」。
ここで言う「天の国」は聖潔の世界のことです。救いを受けたとしても聖潔に入らなければ、それは宝とはなり得ません。罪との同居状態では神の恵はまだ半分にも達していないからです。聖潔の世界は「持ち物をすっかり売り払って」でも買う価値のあるものです。