創世記1:1〜19、26〜28
1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
2009年に「宇宙は神が造ったのか?」と言う本が発行されましたが、その結論は勿論Yesでしたが、私たちクリスチャンも勿論、宇宙は神様が造られましたと答えます。しかし、19世紀まではクリスチャン達は苦しい弁明を強いられていました。その時代までは一般には宇宙は永遠であって始まりも終わりもないと信じられていたからです。
そのような中でクリスチャン達は、そのように思えるかもしれませんが宇宙は神様が造られたものですよ、と信仰に信仰を働かせて弁明していました。
ところが、20世紀に入って科学技術が進歩して星と星はものすごい速さで遠ざかっていることが証明されました。その他幾つかの観測結果から宇宙は爆発によって始まり、今も膨張していると言うビックバン説が定着しています。
ではビックバンは誰が始めたのか、それとも自然に始まったことなのかと言う問いが起こる訳ですが、それに対しては次の理論によって証明されます。つまりカラーム的証明と言いますが、3段論法になっています。第一に「すべて存在し始めたものには原因がある。」、と言うことから、第二に、宇宙は存在し始めたものである。よって、第三として、宇宙の存在には原因がある、と言う結論になります。ここから、宇宙が始まった原因は何であるかと言う探求が始まります。
勿論、目に見える世界がビックバンによって始まったとするなら、それを始めたものは見える世界のものではないと言うことが分かります。ですから、初めに神の霊が存在し次に神は「光あれ。」との言葉によって見える世界が始められたと言うことが必然的に導かれます。
そして、ここで大事なことですが、今見える世界が存在していますが、勿論見えない世界である神の霊の世界も存在していると言うことです。このことを私たちは強く認識する必要があのます。
この世界は見える世界だけによって営まれいるのではなく、見えない神の霊によって統治されている、と言うことをクリスチャンは世に発信してく責任があります。
さてそのような科学的な証明を理解した上で創世記1:1から19節を見て行きましょう。
1:1 初めに、神は天地を創造された。(ここでは天地の創造の前には神がおられたと言うことが宣言されています。)
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(初めに神の霊があったと言う事が語られています。勿論今も神の霊が満ちています)
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(科学者達はこれをビックバンと呼んでいます。カラーム的証明から存在し始めた原因がここにあります。)
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。(太陽が造られました。一気に太陽の創造になりましたが、太陽を造るには宇宙を造る必要がありました。)
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。(大気が造られました。地球の創造と言うことです)
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹(かじゅ)を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。(植物が造られました。現在の空気中の酸素は植物によって作られたものであることが分かっています。)
1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。(月と星について言及されています。この所から星は宇宙人のために作られたのではなく人間のために造られたと私は信じています。何故なら真っ暗な夜ではなく美しい夜空を神様は人間のために造られたからです。)
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。(第四日目で今の素晴らしい自然界が造られました。これで舞台で言うならば大道具が完成したことになります。)
20節から25節で鳥、魚、動物が造られ、舞台装置の小道具が造られたことになります。
そして26節から28節において人間の創造について述べられます。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
このところで、神様は「人間を我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」と言っています。これは、人間には神の形、つまり神の霊、見えない世界の霊によっても造られていることが分かります。ですから人間は見える身体と見えない霊によって造られていると言うことが分かります。ですから私たちは肉体は滅んでも霊は神の元に帰ると言うことが、ここでもハッキリと語られていることが分かる訳です。
ローマの信徒への手紙8:11では「 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」とあります。私たちは死んでも生きる存在でる事がここでも述べられています。
さて神様はこのところで、人間の使命について「地を従わせよ。」「生き物をすべて支配せよ。」 と述べています。つまり、神様が造られた世界を神様に代わって管理させようとしておられることが分かります。
ここのところで、今日のテーマであります「あなたは地のヒーローです」と言うことが理解できると思います。
つまり、神様は地球における主役、宇宙における主役として人間を創造されたと言うことです。演劇で言うならば神様は大道具、小道具を整え最後に主人公である人間を登場させたと言うことです。
ですから皆さん一人ひとりは地上における主人公であり、つまりヒーローなのです。どうでしょうか、少しは心が豊かになってきたでしょうか。私たち一人ひとりは実はヒーローです。主人公です。よく皆さんは私は小さな存在ですと謙遜に言うことがありますが、私は心の中でいやいや小さくなんか有りませんよと言っています。
何故なら私たちは地球における、更に宇宙における主役ですから決して小さな存在ではない訳です。
さてヒーローという言葉を辞書で見てみますと次のようにあります。第一に英雄、勇士、崇拝される人物(多くの人があなたの好意を求める。ヨブ11:19)、主人公、主要人物、保護者、とあります。加えて正義の味方と言うのも付け加えたいと思います。
このように見てきますと決して小さな存在と人の影に隠れていることは出来ません。ヒーローと言うのはひどく目立つ存在であることが分かります。マタイによる福音書5:14に「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」とありますが、実に私たちは世の先頭に出(い)でゆく事が求められていることが分かります。
次に、ヒーローの性質に付いて見て行きましょう。
第一には愚痴を言わない。或いは悪口は言わない。と言うことです。ヤコブの手紙では3:9、10で「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」と律法的に語られている訳ですが、この所では、ヒーローは常に後ろ向きに考えるのではなく積極的に世を変えて行く人物として、批判するのではなく改善して行く人物となって行くことによって、後ろ向きの発言は出てこなくなると言うことです。
第二には、諦めない、と言うことです。勿論演劇の主人公が少々の困難に諦めてしまっては、演劇にもなりませんし、ドラマも成り立ちません。アラブの春のような社会運動でも、一時的な困難(なん)や混乱(らん)はありますが、なお諦めないと言うことによって民主主義の社会が実現していきます。そうそうこれまでの体制が簡単に変えられると言うことはありません。そこにはどうしても忍耐が必要になってきます。
第三に、否定的な考えをしない、肯定的な考え方をしていく、と言うことです。現実をありのままを受け入れ、良くない所があれば改善していく姿勢を持つと言うことです。環境に屈服しないで、環境を変えていく、と言うことです。
これが「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28) と言う使命を頂いている人間の、求められているヒーローとしての性質です。
このように世界の管理者は英雄であり勇士として、人々から好意を求められる存在となることが出来ますが、その一方勿論その責任も大きくなります。
そこで最後に必要な性質が、自立している、と言うことになります。
自立していると言う事は、良いと思うことを行うことが出来、悪いと思うことを思い留まることの出来る人と言うことです。野戦でも話しましたが人には勝てても自分には勝てないと言うのが多くの人の性質です。つまり自分を制御することが出来ない、これが神様から離れてしまった人間社会の諸悪の根元です。
そこで神様は人がもう一度、神と共に歩む人生へと人を招くためにイエス・キリストを世に送ってくださいました。
イエス様は私たちが自立し本来の使命、つまり「地を支配すること」を果たすことが出来るようにするために来られました。
つまり、ヨハネの手紙T3:8「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とあるように自分自身を制御不能になっている状態を完全に取り除くためにイエス様はその贖いの業を実現されました。
私たちクリスチャンは単に天国行きの切符を手にしただけで満足していてはなりません。なぜならばイエス様のその十字架の意味は私たちの魂に巣食っている悪魔を完全に滅ぼすためであったからです。
つまり、イエス・キリストを受け入れた者は皆、聖潔の世界に入るべきである、と言うことです。イエス・キリストは私たちが創造の初めであったヒーローに回復させるために来られました。
イエス様は言いました。ルカによる福音書9:23「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
また、ヨハネによる福音書12:25では「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。
イエス様の薦めは「自分を捨てなさい」と言うことです。そしてその内なる罪を十字架の元に差し出すようにと言うことです。
そうするならばイエス・キリストに完全に従順な者と変えられます。今まではそうしようと思っても心の奥底に巣食っている悪魔がそれを阻(はば)んでいました。
イエス様は90%の従順では満足されません。100%の従順を求めておられます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と言っています。