ヨハネの手紙T3:8
3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
(「聖潔とは何か」(聖潔の栞より))
救世軍は元々「救いと聖潔」を強調する団体ですが、最近の歴代の大将は聖潔の教理を強調するようにとの書簡をたびたび送ってきています。
昨年の連隊朝祷会の奨励の役割を頂いた時には「リバイバルは聖潔によって始まる」と言うテーマでお話しをさせて頂きましたが、これは真実です。救世軍の創立当初の爆発的なリバイバルは救世軍人が聖潔の人となっていたからに他なりません。
マルコによる福音書4:26には「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」とあります。
つまり、神の国は自ずから成長しますと言っています。つまり、私たち自身が神の国となっているならば、その神の国はひとりでに成長すると言うことです。
ですから、「リバイバルは聖潔によって始まる」と言うことが言える訳です。
さて、聖潔に入っている人で私が知っている人としては、第一にブース大将です。彼は1861年、32歳の時に当時ゲーツヘットという町の牧師でしたが、牧師を辞して大衆伝道者としての道に進むべきかと考えていた時に再献身をして聖潔に入ったと述べています。カサリン・ブースについてはブース大将から「あなたは聖潔に入っているか」と聞かれた時に「いいえ」と答えたので、更に「あなたは聖潔の祭壇に自分を献げたのではなかったか」と聞かれて、「はい献げました。」と答えました。そこでブース大将は「ではあなたは清くなっているのではないか」と言われた訳です。
そこでカサリン・ブースはよくよく祈った末「清くなりました」と答えたと言うことです。決心をした。それには誘惑が来てもノーという覚悟が必要。聖霊がくだる。この時点でカサリン・ブースも聖潔の世界に入った訳です。
山室軍平は24歳の時1896年1月に中尉に任じられましたが、なお心霊上の不十分さを克服しようと学びと祈りとを積み重ねた結果、その年の8月に聖潔に入ったと著書「私の青年時代」の中で述べています。その所を少し引用します。
「時は1896年8月20日のことであった。わたくしはその時、三日間の暑中休暇をもらったので、それを機会に、ぜひとも確実な聖潔の恵に入りたいものと、神奈川県富岡の海浜に引きこもって、しきりに考えたり祈ったりしたあげく、それに関しての頭と心の用意も大概調(ととの)ったように思って、その朝は特に未明に起きて、海辺に腰をおろして静かに目を閉じ、今一度おごそかにわが一切の罪、および罪かと疑わしいことを捨て去り、以後はただ神がなれと仰せられるままになり、神がなせと仰せられるままをなすために、生きながらえることを誓いながら、わたくしと、わたくしに属する一切の物を神の祭壇におき、『火をもって答える神』(列王記T18:24)が来て、供え物を聖別してくださるのを待ち望んでいると、神ははたしてわたくしに来てくださった。そのみたまは下ってわたくしの心の汚れを潔め、すべて不純な、身勝手な思いを私のうちから除き、わたくしを『神の神殿』(コリントT3:16)としくださったのである。
・・・わたくしの胸のうちには今『義の太陽』(マラキ3:20)であるキリストが輝くみ姿で臨み、またそのみ光で隅(すみ)々くまぐままでも、すっかり照らしてくださることとなったのである。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』(ヨハネ8:12)、『神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、・・・御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』(ヨハネT1:7)などという、
神の約束はわたくしの上に応験されたのである。ハレルヤ。わたくしはその朝から、全く潔められた生活に入ったのである。」
このように山室軍平は聖潔の世界に入りました。
その後神様は山室軍平を通して素晴らしい働きをなされたのですが、1938年ころには文部省からの「神社は宗教ではないから他の宗教家も拝むように」との通達に対して、彼は救世軍の組織を守るために、それを容認している所から見ると、その頃には聖潔から脱落していたと私は見ています。(ペトロのように)、その後の日本のキリスト教会は「地の塩、世の光としての」使命を果たすことが出来ませんでした。
また、勿論サムエル・ブレングルは「聖潔の栞」の中で1885年1月9日に聖潔に入ったとハッキリと述べています。
(メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーについては聖潔への招きの説教を続けていましたが、謙遜のためか、自らは聖潔に入ったとは言わなかったそうです。)
他にコロンビアのシーザー・カステラノス牧師はイエス様に直接出逢って献身された人で、この人は聖潔に入っていると思います。また、ウクライナのオレンジ革命を導いたサンデー・アデラジャ牧師も聖潔に入っているでしょう。
また、高知小隊の石川裕敏文書軍曹も聖潔に入っていると思います。彼は証言して、夜中に仕事から帰った時に我が子の様子を見ようと子供部屋に入った所、突然「私はあなたが子供を愛する以上にあなたを愛している。」と声を掛けられたそうです。彼の子供さんはその当時は学校に行けずに引きこもっていた時だったそうです。
彼はそこで近くにあった高知小隊を訪ねて礼拝に出るようになって、その後彼のお父さんが救われ、また息子さんも救われたと言うことです。
聖潔に入るその方法は、人によって皆違うようですが、勿論共通する部分もあります。そのような姿勢で求めていくならば聖潔の恵に与ることが出来ると思います。
さて、私は聖潔の世界という言い方をしていますが、私はこの世界を3つに分けています。つまり、イエス・キリストを受け入れていない人々の世界を第一の世界とします。(彼らは第二、第三の世界の人たちを、酒も飲まず煙草も吸わないで何を楽しみに生きているのと言いますが、これは世界が違うので理解が出来ないのです。)
第二の世界はイエス・キリストを受け入れてはいるが、まだ罪との同居の中にあるという世界です。そして第三の世界が罪と全く縁を切った人々の世界です。これが聖潔の世界になります。ところがこの三つの世界の中で第三の世界に入ることが一番ハードルが高いと言われています。しかし、私はまもなく、そうではなく、第二の世界に入ったなら速やかに第三の世界に入る時代がやってくると信じています。
この聖潔の世界のことを仏教用語で言うと「悟りを開く」とか「無我境地に入る」と言うものに近いと思います。しかし、仏教界では修行中には実現しても、やはり日常の生活の中では実現していないようです。
これはやはり人の努力によって出来るものではなく、神様の恵を必要とするものです。決心、覚悟をする時に、聖霊の後押しがなければ、それをすることが出来ない訳です。
また、聖潔の世界と言うのはどのようなものかと言う事を説明するのは非常に難しいと思っています。と言うのは、救いと同じく入ってみないと分からないと言う所があるからです。キリストの救いと言うのも、救われる前にはなかなか理解できないものです。しかし、いよいよ決心して「イエス様を信じます」と告白するならば、それと同時に、その救いの世界の素晴らしさがたちどころに見えてきます。
それと同じように聖潔の世界についても言える訳です。聖潔の世界に入ります、と決心するならば、聖霊が豊に注がれ、その新しい世界が開けてきて、その世界をあまねく見渡すことが出来るようになります。
また、もう一つ述べておきたいことは潔めとは窮屈な世界であると思われているのではないかという点です。しかし、実際には窮屈になるのではなく、伸び伸びと何(なに)ものも恐れることが無くなり、真の自由を満喫することが出来るようになるものです。つまり、神の言葉はこの先は危険ですよとの危険を知らせるバリケードのようなものですから、聖潔とは、この神の言葉の範囲の中で生きる者となる訳ですから、怪我をしたり、争いになったりとの自由が奪われることから免(まぬか)れる訳ですから決して窮屈になると言うような事は一切無いと言うことを述べておきます。
勿論誘惑には近づかないとか、真実をつくし、神様に喜ばれる方を選択していくという、聖潔を維持するための心がけは必要です。
さて、「潔めとは何か」と言う前に「福音とは何か」と言うことについて述べたいと思います。福音とはイエス・キリストの十字架の死と、死からの復活のことです。それは私たちの罪の贖いとして成されたもので、私たちの罪を赦し、私たちを神に生きるものとすると言うことです。
つまり、私たちの最初の始祖であるアダムとエバは神様の導きのままに生き、神と共に生きていました。所が彼らは神様から離れて自分勝手に生きる道を選んでしまったために、不安や怒り、争い、赦せない思い、妬み、嫉妬、不信、疑い、と言うものが入ってきました。そこで神様はもう一度人々を神と共に生きるものとするためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。これが福音です。
ですから福音の最終目標は私たち一人ひとりがアダムとエバが始め持っていた神と共に生きる生活に戻ると言うことです。ところが、救いを受けた状態はまだ、イエス・キリストを目標と定めただけで、その完成にまでは至っていません。つまり、救いを受けだけではまだ、福音は完成されていないと言うことです。
福音の目的はまだ道半ばであって次の段階に進むようにと私たちは促されている訳です。
ヘブライ人への手紙6:1-2に於いてもその事が述べられています。「6:1-2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼(バプテスマ)についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」
ヘブライ人への手紙の著者は「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」と勧めています。
これまで述べてきたことは、つまり、福音の完成とは、即(すなわ)ち「潔めの世界に入る」と言うことであると言うことです。
「聖潔めとは何か」との答えは「福音の完成」と言うことです。
今日のテキストには3:8 「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」(ヨハネT3:8)とあります。
悪魔の働きを滅ぼしていなければ、まだ福音は完成していません。つまり、イエス様の死と復活の目的がまだ、達成されていないと言うことです。「皆さんはイエス・キリストを目標としています。」と言うかもしれませんが、目標とするだけでは十分ではありません。
私たちが「聖潔の世界」に入るのでなければ、イエス様の十字架の死を無駄にしていることになります。イエス様は私たちが歓喜に溢れて勝利の人生を歩んで欲しいと願い、その苦しみに耐えて、十字架の死を受けてくださいました。まさか私たちはその死を無駄にして良いのでしょうか。
山室軍平が中尉の時に祈ったように「わが一切の罪、および罪かと疑わしいことを捨てます。以後はただ神がなれと仰せられるままになり、神がなせと仰せられるままをなすために、生きながらえることを誓います。わたくしを潔めてください」と祈るべきではないでしょうか。