road_ar(ロードアラ)メッセージ    ホームへ             《幸福とは》 category
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-それは蜃気楼に過ぎなかった- 前へ / 後へ -貴方の罪は赦されています-
「スラムから楽園へ」(091011kuma)
 
ルカによる福音書 17:20〜21
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 
ファリサイ派の人々は「神の国はいつ来るのか」と尋ねたと言う事ですが、使徒言行録でも使徒たちが復活のイエス様に尋ねています。「1:6 さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。」 「国を建て直してくださるのは」という言葉でも分かるように人々が神の国といった場合それは、物質的、あるいは政治的であり、生活環境が豊かで、整っている状態を「神の国」と考えていることが分かります。 生活環境が整えば幸せになれる、これは間違いではありませんが、これが全てではないと言う事が言えます。 今の社会福祉は、この考えに立っています。つまり、生活環境を整えてあげれば幸福になれるだろうと考えています。しかし、これには限界があるのも真理です。すべてを整えることは不可能であると共に、整っている場合でも幸福でない時があるからです。
 
イエス様が、ルカによる福音書17:21節で述べていることは、「見える形では来ない」と言う事です。つまり、環境が整えられると言う形では来ません、と言う事です。 そうではなく、人間の内側に神の国は実現しますと言うことです。使徒言行録1章8節でイエス様は使徒達に「1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言っています。 人間の身体は肉体と魂と霊から成っていると言われています。イエス様はこの霊の内に聖霊が宿り、力を受けると言っています。力を受けた人間の内にビジョンが与えられ、希望が与えられます。
 
私たちは、ともすると信仰は霊的なもので物質的なものではないよ、と考えます。この場合、物質的な祝福を望むのは不純であると考えます。 しかし、アブラハムへの約束にしても、ヤコブの場合も、さらにエジプトで宰相となったヨセフにしても、神様の約束は物質的なものを意味していました。神様はアブラハムの子孫が空の星のように増えると言いましたし、ヤコブは経済的な祝福を得ていました。ヨセフは高い地位を獲得いたしました。
 
イエス様は、私たちが霊に力を受けることによって、その力によって環境を変え、整えていくことによって、地上における神の国が実現しますと述べている訳です。 単純に言いますと、環境が変わることによって心が変わるのではなくて、心が変わることによって環境が変わると言うことです。 使徒言行録から聖霊を受けた使徒達からその変化を見てみたいと思います。2:36〜 『2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。』
 
使徒達は、ペンテコステの体験によって力を得て、人々に証言をしていきました。ペトロの説教を聞いて洗礼を受けた人が、三千人とのことでした。47節では「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあります。 ここで分かるように神様は、使徒達をペンテコステによって霊的に祝福してくださり、喜びで満たされましたが、その喜びは、ビジョンとなり、希望となって、多くの人を同じ信仰に招くものとなりました。
 
つまり、沢山の人が導かれたので喜んだのではなくて、喜びが先に有って、次に増加があった訳です。 環境が整えば幸福を感じることも出来ますが、そうではなく心の内に幸福を得ることができれば、その喜びは、環境を変える力となっていきます。 韓国のチョー・ヨンギ牧師は1958年にソウルの貧民窟で開拓伝道をしましたが、それまで、今日食べることが出来るか否かという絶望的な地域でしたが、彼の伝道の結果、3年後には食べることが出来ない人は一人もいなかったと言うことです。
 
人はどんなに貧しくとも、心の内に楽園を持つならば、その楽園は現実のものとなります。 ここに、聖霊を受けることの重要性を見ることが出来る訳です。 福音の第一、つまり、贖罪の福音に留まっている時には、頭の中で、私たちが信じているイエス・キリストは「世に打ち勝っている、主の主、王の王です」。ですから私も、この世にあって王と同じ恵みに与っています。と考えます。 ここでは自分が王であり、この世の支配者である、(これは創世記1:28「地上の生き物をすべて支配せよ」 の意) との自覚には、ワンクッションを置いています。 つまり、キリストが王なので自分も王です。となります。 しかし、聖霊を受けた者は、自分の霊の部分に聖霊を受けていますので「私は王です。世を支配する者です」と成ります。
 
贖罪の福音に留まっている人は、意識していないと自分が「王」であることを忘れてしまい、否定的な思いに支配されてしまう危険があります。 しかし、聖霊を受けている人は、キリストがそうであったように、その様な思いに墜ちることはありません。 就職活動でも、小隊に於けるバザーでも、勝利を信じて行動することが出来ます。 神様は、神様を信じる者を祝福する事によって、地上において神が崇められることを望んでおられます。 ですから、クリスチャンが祝福を得ることは世の必然であると言うことが出来ます。 「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23) と勧めています。私たちは悔い改めて主に全き信頼を捧げましょう、主はその時に聖霊をもって応えてくださいます。
 
 
 
 
<要約> 私たちは生活環境が整えば幸せになれると考えますがイエス様は「神の国は、見える形では来ない」(17:20)と言っいてます。つまり、環境が整えられると言う形では来ません、と言う事です。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(17:20)、とあるように、そうではなく、人間の内側に神の国は実現しますと言うことです。使徒言行録1:8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。私たちの霊の内に聖霊が宿り、力を受ける時にビジョンが与えられ、希望が与えられます。ペンテコステの出来事は喜びが先行し、次に増加がありました。
 
環境が整えば幸福を感じることも出来ますが、そうではなく心の内に幸福を得ることができれば、その喜びは、環境を変える力となっていきます。自らの霊の内に聖霊様を招く時を持っていきましょう。