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-貴方の罪は赦されています- 前へ / 後へ -祝福を受けるに相応しい人に-
「希望の究極の実現を示している」(100620ku)
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詩編 19:2
19:2 天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
 
 
ローマの信徒への手紙1:20に「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」とあります。
 私が救われたのは、聖書の御言と、人間の歴史と、自らの心の弱さ、そしてイエス・キリストの十字架を通して、導かれました。そして神を知ることが出来、更に、神様は私を招いてくださっていることを確信することが出来ました。
 
更にヨハネによる福音書10:10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
この御言から、積極的な信仰へと導かれることが出来ました。
 それまでの認識は、神様は私の罪を赦してくださる方。私は信仰によって、赦されている。愛されている。だから神の御心を行おう。と言う信仰でした。
 
しかし、ヨハネによる福音書10:10の御言を通して、私にとって神様は、赦しの神ではなく、祝福の神と変わってきています。神様は私を赦してくださるだけではなく、祝福してくださる神様です、と言う事です。
 そして、将来の夢をイメージするならばそれを神様は実現してくださると確信することが出来ました。熊谷に来まして、見た夢は、熊谷市長に救世軍人を送りましょう、と言う事と、体育館のような会館に引っ越しましょう、熊谷市民全員がクリスチャンになりましょう、日本人全員がクリスチャンになりましょう、と言うものです。
サタンはそう言うことが実現すると困るので必ず否定的な思いを植え付けようとしてきます。「そんなことは不可能ですよ」と言ってきます。しかし、今までも言ってきましたがサタンの言葉を信じてはいけません。
私たちはサタンの言葉ではなくイエス様の言葉を信じるべきです。即ち「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:10)
 
「宇宙は神が造ったのか」と言う本を読んでいますが、この本を読もうと考えたのは進化論を信じるノンクリスチャンに対して正しい説明が出来るようになりたいという思いからでした。しかし、この本はそれ以上のことを私に教えてくれています。
つまり、「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(ローマ1:20)と言う事です。
 いままでは自然を通してはただ、神様の造られたものは素晴らしい、神様はこの世界を聖いものとして造り、また私たちの心も聖いものとして造られました、と証言していました。
 
しかし、今では神様の知恵の計り知れないことに驚嘆しています。先日、魚も食べましょうと思い、アジを買ってきまして丸ごと焼こうとしましたが、開きにした方が省エネかなと思いまして、半分にしてみますと、えらの所が目に付きました。そしてその作りの繊細なことにしばし感心した訳です。えらは人間で言えば肺に当たる器官です。魚はえらで水から酸素を吸収していますがどう言う構造になっているのか見当も付きません。
 一般の人は偶然によって進化して全ての物は出来たと思っていますが、偶然で出来たにしてはあまりにも精巧に出来ていると思いました。また、魚の浮き袋にしても、その様な物が偶然に出来るものだろうかと思わない訳には行きません。これには必ず設計者が居ると確信しています。
 
私は高校が建築科でしたので設計図をだいぶ書きましたが、神様の所にはどれだけの設計図があるのだろうと想像して驚いています。
 
聖書はこの見える世界について正しく説明しています。
詩編 19:2「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」
詩編36:6主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。
詩編148:13主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。
 
最近小隊のホームページに使っている写真を何枚か入れ替えましたが、何故か空が大きく入った風景写真が多くなりました。
 大空、それは御手の業を示しています。そして真実、威光を現しています。そして大空は何よりも、私たちに希望を予感させていることに気付かされます。
 
ここで神学者のアリスター・マクグラスの一文を紹介いたします。「満天の星空という荘厳な光景を見て、不思議な感動を覚える。そして、自然や人間を超えた、霊的な意義に満ちた存在を意識する人は多い。しかし、そんな熱い思いを生み出すのは、はるか彼方の星の輝きそのものではない。それは、私たちの心にすでにある思いである。光り輝く星を見て気づくのは、心に眠る霊への思い。虚(むな)しい思いに気づき、心に開いたこの穴は果たして埋まるのだろうか、どうすれば埋められるのだろうか、と言う思いに、私たちを駆り立てる。
 
 ひょっとして、私たちの起源は、運命は、こうした星を超えた何かにあるのではないか。今は追放されているだけで、私たちがひそかに求める、帰るべき故郷があるのでは。今の自分に満足できなかったり、幻滅したりする毎日が続いているのは、自分の本当の運命を生きられる別の場所があるから。私の空虚な心の叫びを通して、その場所が自らの存在をアピールしているからではないだろうか。
 仮に、私が、本来の居場所から外れているとしたら? その場所に属さない人間。どうした理由からか、迷子になってしまった私。だからこそ、今の自分はどこか奇妙で、同時に素敵な存在なのではないか。『自分の本当の運命を生きられない場所にいるから、奇妙。そして、向かうべき本当の希望がある場所が示されているから、素敵。』夜空の美しさや壮麗な夕焼けは、私たちの心の奥底に眠る希望の起源やその希望の究極の実現を示す、重要なコンパスなのだ。しかし、その案内板を見間違えると、私たちの希望や熱意は、本来よりも小さな目的にとどまってしまい、人生の、自らの意味を求め続ける渇きを癒すことはできなくなってしまうのである。」
 ここでマクグラスは満天の星空は私たちを霊的な思いに導くと行っています。そこには、心の空洞がまだ空になっている時、不安をもたらすと言う事です。
 それは帰るべき故郷があることを指し示しているのではという思いを抱かせます。、
 
「『自分の本当の運命を生きられない場所にいるから、奇妙。そして、向かうべき本当の希望がある場所が示されているから、素敵。』夜空の美しさや壮麗な夕焼けは、私たちの心の奥底に眠る希望の起源やその希望の究極の実現を示す、重要なコンパスなのだ。」
 
「希望の究極の実現」、これが美しい夜空、夕焼けや、雄大な大空を見る時に、その思いを呼び起こします。
 歌謡曲の中に「ああ 人は昔々、鳥だったのかもしれないね。こんなにもこんなにも、空が恋しい。」と言うのがありました。人は大空の中に確かに「希望」を見ていると思います。
 
「希望の究極の実現」、それは誤っていません。正しい認識です。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:10)とのイエス様の言葉は、これを保証しています。
 「全ての夢叶うよ、願うまま生きられる」これが私たちへの約束です。
私たちはありのままの自分を、神様のお取り扱いに委ねていきましょう。それによって希望を実現するに相応しい者に、自分を変える事ができます。
 
 御手の業である「大空」は私たちを「希望の究極の実現」へと導いています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<要約> 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)。この御言は私を積極的な信仰へと導いてくれました。それまでの認識は、神様は私の罪を赦してくださる方。弱さがあるけれど神様は赦してくださる。と言う中で信仰の入り口で足踏みをしているようでした。しかし、この御言は私にとって神は、赦しの神ではなく、祝福の神へと変えてくれました。神様は私を赦してくださるだけではなく、祝福してくださる神様であることを信じています。そして、将来の夢をイメージするならばそれを神様は実現してくださると確信することが出来ました。私が見た夢は、熊谷市長に救世軍人を送る。体育館のような会館に移る。熊谷市民全員が、日本人全員がクリスチャンになる。と言うものです。サタンは否定的な思いを植え付けようとしてきます。「そんなことは不可能ですよ」と。しかし、私たちはサタンの言葉ではなくイエス様の言葉を信じなければなりません。即ち「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
 
大空、それは御手の業を示しています。そして真実、威光、更に私たちに希望を予感させていることに気付きます。神学者のアリスター・マクグラスは次のように言っています。「満天の星空という荘厳な光景を見て、不思議な感動を覚える。(それは)ひょっとして、私たちの起源は、運命は、こうした星を超えた何かにあるのではないか。今は追放されているだけで、私たちがひそかに求める、帰るべき故郷があるのでは。今の自分に満足できなかったり、幻滅したりする毎日が続いているのは、自分の本当の運命を生きられる別の場所があるから。私の空虚な心の叫びを通して、その場所が自らの存在をアピールしているからではないだろうか。(という思いを抱かせる) 夜空の美しさや壮麗な夕焼けは、私たちの心の奥底に眠る希望の起源やその希望の究極の実現を示す、重要なコンパスなのだ。しかし、その案内板を見間違えると、私たちの希望や熱意は、本来よりも小さな目的にとどまってしまい、人生の、自らの意味を求め続ける渇きを癒すことはできなくなってしまうのである」。「全ての夢叶うよ、願うまま生きられる」これが私たちへの約束です。私たちはありのままの自分を、神様のお取り扱いに委ねていきましょう。それによって希望を実現するに相応しい者に、自分を変える事ができます。御手の業である「大空」は私たちを「希望の究極の実現」へと導いています。